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主を待つ (Waiting on the Lord - Japanese)

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Translated by Masazumi Fujiwara from the English.

詩篇27:14 待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。

詩篇37:9  悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。

序文

待合室。それは時が止まってしまったように感じる所。それは生活の全てが止まってしまうところ。主治医の待合室で、数時間が経過したように私は感じていた。そして時計を見てみると、なんとまだたった20分しか経っていなかった。このように、私達は待合室で待っていると自分に関する全ての事が急に止まってしまうように感じられるものだ。1

これはMark Wheelerによって書かれたものである。この短い文章はこれから私達が学ぼうとする主を待ち続ける事への非常に良い導入である。

聖書の重要な奨励の一つは「主を待つ」と言う事である。神は待つという事に対して特別な祝福を約束してくれているにもかかわらず、待つという事は聖書の奨励の中でももっとも難しいものの一つである。なぜそんなに難しいのであろうか?それは堕落した人間性として、私達があまりにもすぐにものごとを自分で扱おうとしたり、自分のやり方でやろうとする傾向があるからである。しかし、聖書は私たちに「主を待つ」ことを何度も何度も教えているのである。

私達は待つ事が好きじゃないし、待つという事を考えると思わず次のようなだじゃれを言ってしまう。「待つ?あの橋を壊してしまう奴だろ?」もちろんそれは待つ(wait)ではなく重さ(weight)である。しかし、この二つの言葉は全く関係なくはない。なぜなら、私達が主を待つ ために必要な事の一つは自分の人生の重荷 を主に向かって放り投げる事だからだ。

橋についてのジョークは私達が基本的に待つことが嫌いなことを良く表している。特に、私たちのような「今すぐ欲しい!」の社会においてはである。私たちの社会は今すぐに満足しようとする社会だからだ。最近の便利さや近代技術の発展(電話、冷蔵庫、冷凍庫、電子レンジ、ファーストフード、飛行機・・・)によって、私達は非常に多くのものをボタン一つですぐに手に入れることができるようになった。最近のコンピュータ技術の発展を思い浮かべてみたら分かりやすいであろう。2、3年前に買ったコンピュータは今ではもうかなり時代遅れになってしまっている。

こんなに便利になった今日でも、待つということは人生の重要な部分であり続けている。待つといえばどのようなものを想像するだろうか?飛行場のターミナルや病院の待合室、スーパーのレジ待ち、ラッシュ時の電車待ちなどを想像するだろう。これらの事実が、私達が何かを待つためには多くの時間を割かなければいけないということを言っているのではないだろうか? :

    · もしかしてあなたは仕事上苦しくて耐えられないような状況にあって、状況が好転するように待っているかもしれない。

    · もしかしてあなたは仕事がなくて採用の知らせを待っているかもしれない。

    · 自分や大切な人が病気でその病気が回復するのを待っているかもしれない。

    · もしかするとダイエット中で体重が5キロくらい減る事を待っているかもしれない。

    · 独身の人はその相手を待っているかもしれない。

    · 自分の配偶者や子供が霊的なことに興味を持ってくれることを待っているかもしれない。

今日の時代に生きていて私達が待つということが基本的に嫌いであろうが、間違いなく言えることは人生は待つということで満ちているという事である。そして聖書の奨励の中でものすごく大切な事の一つとして待つということがあるのである。私達が嫌いだろうが我慢できないだろうが待つことは人生の重要な要素なのである。しかし、待つことによって私達は有益な事を数多く学んで行く。その事を今回の学びでは学んでいこうと思う。

主を待つことについて考える時、私達は多くの重要な問題に答える必要があるが、それらは全て聖書の約束と原則に照らし合わせて考えられなければならない。なぜか?それはこれらの質問に答える事なしには、まるで私達はいすが部屋中に散らかった部屋でしっぽの長いちょこまか動く猫を捕まえようとするようなものだからだ。結局私達はやきもきするだろうし、恐れ、いらだち、不安にとらわれてしまう。やがては怒り始めるのである。しかし、主が私たちに待つように教えられているし、実際待つことによって素晴らしい益を受ける事ができるので、私達は待つことがどのような意味があるかを知り、どのように待つべきなのかを学ばなければいけない。

鍵となる問いは次のようなものだ:

    · 待つことはどのような意味があるのか?何に関係しているのか?

    · どのように待つべきなのか?

    · 私達はいったい誰を、何を待っているのか?

    · なぜ待たなければいけないのか?

    · どのくらい待たなければいけないのか?

これらの問いに対しては聖書的な答えが必要であるし、その事によって私達は真に主を待つことを知り、神の約束された祝福を経験する事ができるのである。まず最初に、このことに関わる聖書のキーワードをざっと見てみようと思う。

旧約聖書で用いられる語句

NASB訳で、主を待つという意味の時に一番頻繁に「待つ」と訳されている言葉は「カヴァ」と言う語句である。この「カヴァ」の意味は(1)「一緒に縛る」(恐らくロープを作るときにより糸をねじっていく所から) (2) 「辛抱強く見る」(3)「留まる、待つ」(4)「望む、期待する、熱心に見る」である。

二番目は「ヤチャル」。「ヤチャル」は「待つ」「望む、期待して待つ」と言う意味である。KJV訳ではこの「ヤチャル」を時折「信頼する」としている(イザヤ51:5のように)。しかし、NASBでは「期待して待つ」と訳しており、NIVでは「望みを持って待つ」と訳されている。

三番目は「ダマン」である「ダマン」は「黙る、沈黙する」と言う意味である。しかし時々この言葉は「待つ、留まる、静まる」と訳される。(KJV詩篇62:5参照)

四番目は「チャカア」で、「待つ、留まる」「熱望する」と言う意味である。(詩篇33:20、106:13、イザヤ30:18参照)

旧約聖書は、特に、人生への圧力の中で神の摂理と主を待つことの必要性を、日々の歩みに対して述べている。次に見るように、新約聖書ではその焦点はキリストの再臨である。しかし、この新約聖書の焦点は主の再臨を待ち望む事がいかに日々の生活に大きな影響を与えるかということに向けられているのである。

新約聖書で用いられる語句

新約聖書において待つという意味で一番使われている言葉は「プロスデコマイ」である。この言葉は複合語であってプロスと言う「~に向かって」という語とデコマイという「受け入れる、受ける」と言う言葉からなる。2

このプロスデコマイは(1)「自分のために受ける、熱心に受ける」(2)「期待する、見つける、待つ」2と言う意味がある。この言葉はマルコ15:43、ルカ2:25、12:36、使徒24:15、テトス2:13、ユダ1:21で使われているので比べてみて欲しい。この言葉の焦点は、最初の降誕か後の再臨かに関わらず主の来臨に当てられている。3

二番目は「アペクデコマイ」である。この言葉は2つの接頭語を含む3つの複合語である。一つはアポ「~から」で、次にエク「~の外に」で動詞がデコマイ「受ける、受け入れる」である。この語句の意味は「待ち構える、熱心に待つ」3である。この語はローマ8:19、23、25、Ⅰコリント1:7、ガラテヤ5:5、ピリピ3:20、ヘブル9:20に用いられているので比べてみて欲しい。ここでも、待つことはまず主の再臨の預言に用いられており、その後に続く栄光の祝福に用いられている。4

他に「待つ」と訳された言葉は「アナメノ」である。これは文字通り、親が、子供が帰ってくるのを待つように待ち続けるという意味である。あえて言えば「期待している人が来るのを待つ」。ここには恐らく辛抱と信頼が伴っている。4この語は一度だけ用いられており、やはり主の再臨について述べられたものである。(Ⅰテサロニケ1:10)

これらの言葉を心に留めておいて、待つということが聖書の中でどのように捉えられているかを見ていこう。これらの点が複数のより糸を一つのロープによっていくように、待つということを考える時、お互いに補強しあって行くのである。

主を待つことに欠かせないもの

待つことは時間の経過を必ず伴う

詩篇130:5-6で詩篇の作者は次のように述べている。「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。」彼は主を待ち望む事を、夜回りが任務から解放される夜明けを望んで時を過ごす事に比較している。夜明けが来るのは確実であるが、時間はそれまで経過されなければならない。この「今すぐ欲しい!」世代の私達にとって理解するのがいかに難しかったとしても、私達は主を待つことがテレビの特別番組や飛行機の到着や定年退職を待つのと同じように時間の経過を必ず伴うものである事を理解し、受け入れなければならない。主を待つ事とは必然的に時間の経過を耐えることである。しかしそれはもっともっとそれ以上のことを意味しているのである。

待つことは確信できる期待を伴う

待つことが希望の概念を含んでいる事は、ヘブル語の「カヴァ」が「希望、期待して見る」と訳され、待つという意味の「ヤチャル」が希望と待つことの両方を意味するゆえんである。

待つ事 と 望む事 はそれぞれがロープの縒り糸のようなものだ。その事を示してみると:

(1)自分に約束された相続財産を待つことは、当然土地に関する法律が自分に当てはまる事を期待し望んでいるのである。

(2)テレビでニュースを待っているときは、当然テレビが動き、テレビ局がその番組を放送する事を期待し、信じているのである。

(3)新しい職に応募してその返事を待っているときは、職が得られることを望んでいるだけでなく自分がその職にふさわしいこと(資格・資質)を確信しているのである。

もう一度、詩篇130:5-6を見比べてみよう。

5 私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。6 私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。

町の夜回りのように私達が朝を待っているのなら、私達はただ時間が経つのを待っているだけではない。私達は太陽がのぼって夜が明け、暗闇が光になり寒いのが暖かくなっていくのを待っているのである。

待つことは何か特別な事に対する期待が関係してくる。待つことはその事が起こる事を待ち望むことであり、その事への確信のある希望である。究極的には主を待ち望む事は太陽が昇るのを待つことのようなものであり、日中の暖かさのように人間の必要に対しての待ちに待った主の答えを待つことである。

この事は自然に次の点に話が移っていく。それはさらにロープを強くする3番目の縒り糸である:

待つことには知識と信頼に基づいた期待が伴う

知識と信頼なしに私達は単に待つことはできない。少なくとも大きな不安を抱えずにはいられない。そのような結果、結局は問題を自分自身で扱おうとしてしまうのである。

過去の経験に基づいて私達はニュースが6時から始まるのを待つ。私達はテレビ局が6時に放送する事を信じているのである。何年にも渡ってその事が続いてきているので私達はテレビ局のスタッフがしっかり6時にニュースを放送してくれる事を信じているのである。

これまでの人生を通して私達は太陽が毎朝昇ってくることを経験してきた。太陽が朝に昇らないということは決してなかったので、これまでの経験に照らし合わせて私達は太陽が昇ることを信じ、知っているのである。したがって、私達は光と暖かさを待つのである。しかし結局は、私達は神の造られたこの世界の自然法則がこれからも働き続ける事を予想しているのである。

そして、私達が待ち続け・待ち望む ものは主と主の愛なのであると聖書は強調している。少なくとも28の箇所が私たちの待ち望む対象が主であり、それが確信できる事であると言っている。もう一度詩篇130:5-8の詩篇において作者が確信している対象と強調を引用しておこう。

5 私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。6 私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。7 イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。 8 主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。

夜警は太陽がまた昇ってくることが信頼できる事なので太陽が昇るのを待っている。それと同じように詩篇の作者は主を待ち望んでいるのである。いやむしろそれは太陽が昇ってくることより確かな事として主を待ち望んでいるのである。言い換えれば、待つことは根本的には主と、そのご性質と、その主の約束に対する信頼・知識・信仰によって支えられているのである。

主を待つことの能力は神がどのようなお方で、神が何をなされるかを見続けそれらに信頼する事から生まれる。このことは神のご人格に対する信頼を意味し、神の知識への信頼、神の愛、神の計画された時、自分を取り巻く状況を神がどのように見ておられるか、この世界に対しての神の理解への信頼である。それは神の原則や約束、目的、力を知る事とそれらへの信頼を意味する。

下に上げるいくつかの箇所は神のご性質と神の義(忠実さ)に基づいて待ち、静まる事を求めている。

詩篇52:8-9 8 しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。 9 私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。

詩篇62:1-12 指揮者のために。エドトンによって。ダビデの賛歌

1 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。 2 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。 3 おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。 4 まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。セラ 5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。 6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。 8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ

9 まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。 10 圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。 11 神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。 12 主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

詩篇37:7-9 7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。 8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。 9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。

詩篇39:7 主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。

詩篇作者の望みはどこにあるのだろうか?それは主ご自身 にあり、主のなされる事 にあるのである!

しかし待つことを考える時、私達はしばしば次の質問に対して答えなければならない。「この待つべき時の間、私は何をすればよいのだろうか?」という問いである。座って何もするなということであろうか?答えはイエスでありノーだ!

では、次の原則を考えてみよう。ロープを強める4番目の縒り糸である。

待つことは消極的であり積極的である

「待つ」ということを考える時、私達はどうしてもただ座って、何もせずに、何か起こるのを待つことを思い浮かべてしまう。しかし、それは聖書が求めている「待つ」ということではない。おそらく「待つ」という事を考えた時、もっとも難しいことの一つは消極的な側面と積極的な側面を良いバランスで両立させていく事を学ぶ事であろう。

待つことは受動的(消極的)な面と能動的(積極的)な面を含んでいる。つまり私達にはすべきことと、すべきでない事があるのである。この消極的な面と積極的な面は互いにロープの縒り糸のように密接に結びついている。もしその関係を適切に保つ事ができればこの二つは偉大な強さ、勇気、我慢、忍耐を生み出す。

行動するという事に関しては三つの事を含んでいる:

(1)すべき事―正しい事をする

(2)すべきでない事―間違ったことを避ける

(3)聖書的に待つという過程で私達に起こる事

これら3つは密接に関連していて、主を待ち望む時に実際にはきれいに分類できるものではないが、基本的には、信仰によって、聖書にある「待つ」事に関するいくつかの訓戒に注意深く従っていくことに関係している。

主に確信を持って信頼し、待つということにおいて下の箇所は積極的な面と消極的な面がより合わさっている。

詩篇37:7-9 7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。 8 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。 9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。

詩篇37:1-6  1 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。 2 彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。 3 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。 4 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。 5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。 6 主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

待つことは主を捜し求める事を伴う

哀歌3:25 主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。

積極的な面として待つことは常に主を求める事を意味する。私達が神の待合室に入ったのなら、私達は病院のようにいすに座っているだけではいけない。むしろ神を追い求める事に時間を使わなければならない。これが意味するところは:

    · 御言葉のための時間 学び、答えを求め、神の約束を求める

    · 祈りの時間 問題について祈る、知識と分別を祈り求める

    · 黙想する時 神がどのようなお方か、神は私達に何を求め・私達を 通して何をなさりたいのか。これは私達が自分の動機や態度、私達の価値観や目標、人生の目的を吟味し評価するために必要である。

詩篇119:43、49、74、 81、 114、 147 (ヤチャル) 130:5 (カヴァを2回ヤチャルを1回用いている)、哀歌3:21-24 (ヤチャル)を見て欲しい。

待つことは正しい時に行動を起こす事を必要とする

耕すのに時があり、種をまくのに時がある。また収穫するのにも時がある。しかしこれらは決して一緒には、また同時には行われない。数年間、私の父親は米作農家であった。私は少年時代のいくらかをその農場で過ごしたわけである。そこで私は農場で働き米作りに関わる事を知る機会が与えられたのである。もっとも重要で楽しみな季節は苗を植える時と収穫する時であった。しかし、それら自体は数週の間で、異なる時期におこなわれた。私達は田を耕し、種を蒔く。稲が数インチの高さに芽を出したら水をはる。その次の月の仕事は水の高さを適切に保ち稲が生長するのを待つ。毎日水の高さが適切かどうかを田んぼを歩いてまわって確認するのである。最後に、数週間期待して見守り、待ち続けたのち、収穫の時が来て刈り入れるのである。しかし、全行程において正しい時に正しい事をしなければならないのである。

主を待つとはこういうことである。神は私達の人生において霊的な収穫のために成長させようとしているのである。しかし、これは時間がかかることであるし、私達が正しい時に正しいことをするという応答がなければ成り立たないものなのである。

待つことは神の定められた時まで静まる事を必要とする

詩篇145:15 すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。

ガラテヤ6:9 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

待つことは神の定められた時まで静まるということである。しかし常に自分にできることと御言葉に示された事を怠らないで、つまり自分の責任をしっかりと果たしながら静まるということである。

一方、私達は静まって待たなければならない。この事は主を置いて問題を自分自身で人間的な方法で取り扱おうとする事の反対である。例えば、ある人の配偶者が御言葉にそむくような行動しているとその人が感じる時、大きな誘惑になるのは相手をなじって、不満と口論で相手を打ちたたくような事だ。しかしペテロの忠告はこのようなものとは全く違うものだ。私達の責任は彼らをキリストに似た振る舞いで勝ち取ろうと追求する事であり、・・・もし神がふさわしいと考えるなら・・・私達の証を通して彼らの生活に主が働かれる中で行われるのである。

Ⅰペテロ3:1-2 1 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。 2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

このことを心に留め、詩篇37:7を見てみよう。

詩篇37:7 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

この節の「静まる」はヘブル語で「ダマン」であり、時々「待つ」と訳される語句である。しかし、その基本の意味は「黙っている、沈黙する、動かない、静かにする」と言う意味である。7節と9節で「主を待て」と二回も言われている文脈でこの語句が述べられている事に注意する必要がある。

この語はヨシュア記10章12節で太陽がとどまった時に用いられた語であり、当たり前のはずの動きが止まったと言う意味が含まれている。私達が普段の活動から主のみと歩むまでになるには、どれだけの時がかかるのであろうか!

したがって、「ダマン」という語句は主やその御言葉について黙想するために静かにしていると言うような意味で使われている。(詩篇62:5はダマンをチクヴァと共に使っており、カヴァからの望みという意味。また詩篇4:4は「動かない」と言う意味)

また詩篇46:10の有名な箇所「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」と比べると、異なるヘブル語が使われているが、この箇所自体は同じ意味で使われている。ここの箇所のポイントとなる言葉は「ラファ」であり「気を緩める、動かないようになる、成り行きに任せる」と言う意味である。

一方詩篇37:34はコインの裏表のように違う側面を強調している。「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。」

主を待つことは主の道を守り、正しい事をする事を含むのである。それは神が、神の約束とその定められた時には必ず良い事をしてくださる事、そしてその摂理への信仰に裏打ちされた積極的な行動である。もう一度述べておくがこの事は人間的な方法や解決で問題を解決しようとする「死の道」を歩む事と正反対の事なのである。

待つことは神が良いことをしてくださる事、そしてそのお方を信頼する事を意味する

哀歌3:25 主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。

詩篇 62:5-8  5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。 6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。 8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ

イザヤ8:17 私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。

これらの箇所やそのほかの多くの部分も「待つ」ことの本質が神の性質と性格に対する信仰・信頼である事を教えている。神が人生の全てにおいて避けどころであり、堅い岩である事を信じない者は決して主を待つことはできない。「待つ」ことは神が私たちの人生でしてくださる事に信頼することであり、静まる事によって神にご自身の約束を果たされる事を強く求める事であり、その故に私達は神の原則に忠実に従い、神の持っておられる目的や価値観、優先順位を自分のうちに保ち続ける事ができるのである。

信仰によって待ち、静まる事の正反対は自分を守ろうとする自分自身で考え出した解決方法である。それは多くの場合、怒り、恐れ、ねたみから出たものである。そのとき私達はいらいらするし、うめき、不平を言って、問題から逃げ出そうとするのである。私達は自分自身の満たされない感情を補ったり、他人の意見から自分を守ろうとして、他人の注意を引こうとしたり、他人を支配しようとする。失敗したり、失う事への恐れから抜け出た時にのみ私達は自分の考えている事を吟味しなおす事ができる。しかし、恐れは主への信仰を揺り動かし、肉の働きに自分を任せてしまうことになる。

待つことは正しい事を行う事を伴う

神の定められた時、神が良い事をしてくださる事、永遠の目的に信頼し静まる時、次のような否定的なことを避けることも正しい行動の一つである:

(1)復讐しない(箴言20:22)

(2)さばかない、人間的な基準で人を評価しない(Ⅰコリント4:5)

(3)離婚せずに、むしろ和解に努め、神の御心である聖書的な解決に尽力する。

(4)衝動で結婚しない。

(5)まず主にたずね求める事なしに現在の困難さのゆえにある状況から逃げたり、仕事をかえない。

(6)今すぐにでも変えてほしい私達にとっては、主が働かれるまで待つのは苦しい事である。そのため夫や子供をはじめ、他人をごまかそうとする。しかしそのようなことをしてはいけない。

(7)私達は自分の状況があまりよくない時には他人の幸せにイライラしたり、怒りや憤り、妬みなどをもちやすい。しかしそのような事は避けなければならない。上に見るようにそのような態度は、悪い噂話やふくれたり、復讐しようと考えたり、仕事で成功して自分の幸福を追求するような人間の典型的な行動パターンに現れてくる。そしてそれは家族や健康を犠牲にし、主と共に歩む事の妨げになる。

しかし主を待つことは取り乱したり、主より先走るような事なしに、自分のすべき事をするという事である。例えばもし私達が職をかえたいのなら、私達は神に知恵と神の主権的な導きを祈り求める必要がある。しかし私達は同時に職をかえるために勉強や訓練などの実際的な準備をしていく必要もある。そして新しい仕事について調べ、雇用契約書を調べ、職に応募し、友に話し、職業紹介所に行かなければいけない。私達はテレビの前で座っていれば雇用主がドアを叩きにやってくると思ってはいけないのである。

待つことを通して神が与えて下さるものと、神の定められた時によって満たされる事を学ぶ

主を待つことは私達が神に必死にしがみついて行き、彼の知恵と愛に安らぐことなのであり、そのため常に満ち足りて辛抱強くなる事を意味する。

(1)堕落した人間性と反対のものであり、私達は御霊によって作りかえられた後でさえも以前の考え方で行動しやすいので、満ち足りる事と我慢というものは非常に難しいことである。それは常に御言葉によって新しくされ、神との交わりを持ち、変わる過程でもがき続ける事を必要とする。

(2) サタンのずるがしこい欺きが常に人類に働き、つまり人は神を必要とせず主から離れて自分自身の考えで安心と満足や人生の意義を見つけることできると考えさせる。満ち足りる事と忍耐は、人に対してそのように働くこの世界の中をまっすぐに飛んでいくために必要なものである。

主を待つことは、私達がこの堕落した世界において神に必死にしがみついて神の愛とその知恵に安らぎ、満ち足りて辛抱する事を意味する。鍵となるのはこの世界が全てではなく、いつの日か完全な世界に住むことができる事を知ることである。

Ⅱコリント4:16-18 16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。 17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。 18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

一方、満ち足りる事と忍耐は私達に、自分では生きるために必要と思われる人生の意義や安心、満足が決して私たちを支配するようなものではないことを学ばせるのである。

ピリピ4:11-13 11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

この堕落した世界のさなかにあって私達は神に必死にしがみついていく事を学ばなければならない。それは、私達にはそのように見えない栄光や目的であっても、神とその導きに安らぎ、そしてそのことに対して献身していくことを意味する。

信者はサタンの欺きが大きいことを一般的には認めているが、しかし実際のところは、私たちの生活や人生についての考えやその代用品として彼の欺きをいまだ買ってしまっているのである。そして、さらにいっそう私達を混乱させる事として、人生の目的や意味、愛、人に受け入れてもらう事、喜び、幸せを求めるという私達が本来神から与えられた性質がサタンの策略に非常に敏感だと言う事である。

神から与えられたこれらの欲求は、神という私達のもっとも基本的で根本的な必要に取って代わるものではない。そしてそれらの欲求を適切に用い、乱用させない(偶像にしてしまわない)能力は私達がいつも主に信頼し、主との関係を保っているかどうかによるのである。

私達は本来、安心や楽しみ、慰め、快適さ、衣服、食べ物、人生の目的、受容、愛のような多くのものを求めている。そしてこれらはなにも悪いことではない。しかし、生来的にそのような欲求があるので、私達はサタンの欺きの餌食になってサタンの策略に落ち、その欲求を自分自身で満たそうとしてしまうのである。

(1)私達は生活の中の様々なものにこだわり、それら(車や家庭、家の家具など)なしには幸せになれないと自分に言い聞かせようとしてしまう。

(2)私達は自分の意見を尊重してくれる人々や特定のグループによって受け入れられる事、人の羨むような地位なしには、人生の意味を見つけることはできないし、自分がちっぽけな存在に感じられると言う欺きを信じてしまう。(心の空白を埋めようとしているのである。)

私達がこの種の嘘を信じてしまう時、私達は創世記3章にあるエバのように不満を持つようになる。そして、私達の不満や誤った信仰の状態は、エバがしたように、私達を主を待つことから自分自身の解決法に向けさせる事になるのである。私達は自分の欲しい物を手に入れるために、思わず自分のちっぽけなトリックの袋に手を突っ込んでしまうのである。この事をエレミヤは次のように述べている:

エレミヤ2:12-13 12 天よ。このことに色を失え。おぞ気立て。干上がれ。――主の御告げ。―― 13 わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

私達の堕落してしまった性癖のもっとも顕著なものの一つとして、私達が神だけが与えることができるはずのものをこの世から得ようとすることである(Ⅰテモテ6:17)。しかし、私達は決して神から離れて基本的な人生の満たしを得ることはできないのである。主なしには、たとえ私達が繁栄の絶頂にあったとしても人生は干からびた大地のようであり、結局はネズミが車輪の中で運動しているようなもので、とにかく走り続けているようなものだ。結局どこにも行けず、満たされず、うんざりしてしまうのである。

主を待つことはどのような状況にあっても、神との交わりによって、神の用意されたものとその「時」に満たされることにつながるのである。神を知り、神に必死でしがみついて、神に信頼するのである。

イスラエルは神の民として、神との交わりとその栄光を経験したのであり、明らかに神の保護と指示のもとに歩み、神の備えられたものを受けていくべきだった。

私達が主を待つために重要な事に、満ち足りる事を学ぶということがあるが、詩篇106:13~15はそのことについて非常に豊かな見識を示している。

詩篇106:13  しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。 14 彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。 15 そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた。(訳者挿入)

一つ目の問題:神のなさったことをすぐに忘れる(13節a)

この節の二つの部分は互いに因果関係を持っていると私は考えている。結果となるのは「神のみわざを忘れること」であり、一つ目の強調点である。「神のみわざ」は神の全能の愛があらわされた御業であり、エジプトにおいて過ぎ越しの羊の時、紅海を神の力によって渡った時、その後も続く荒野での神の救出であり、その事をここでは強調しているのである。

そしてこれらの御業は何を示しているのだろうか?それは神が愛にあふれて、恵み深く、力強く、最初アブラハムと結ばれ、後にモーセと結ばれた契約によって御自分の民に尽くされる方である事を明らかにしているのである。(ローマ8:31-32参照)

それにもかかわらず、何が起こったのであろうか? 彼らは主がなさった御業をすぐに忘れてしまった。この「忘れる」という言葉はヘブル語でシャカアといい、明白であるはずの事を他のものに変えてしまうという意味がある。なんと悲しい事だろうか!彼らは主に置いてあるはずの自らの焦点を失ったから忘れたのである。そしてなぜその焦点を見失ったのかといえば神のさとしを待てなかったのである。

理由:「 そのさとしを待ち望まなかった」 (13節b)

神のさとしとはなんであろうか?ここで用いられているヘブル語は「エツァア」であり、「忠告する、計画、目的、設計する」と言う意味である。究極的にはこれは御言葉に帰されるが、特にそれは神の計画 目的 をさすもので、神の民が神の原則と愛 、また神が必要を備えてくださると言う約束 に従って歩むために整えられたものである。このさとしは彼らが神と共に歩むために与えられたものであり、彼らが神の民、また多くの国々にとっての祭司として、神と共に歩むために必要なものである。しかし彼らは神のさとしにしっかり応答できなかったので、すぐに神の民としての自覚をなくしてしまったのである (出エジプト19:4-6、Ⅰペテロ2:5-11参照)。

どのようにして彼らは待つことに失敗したのだろうか?それは彼らが主にしがみついて、神の愛・定められた時・知恵・神が必要を満たしてくださることに安らげなかったことを意味している。それらのものは、神がご自身の目的に沿うように彼らを導く上で最も大切なものであるのに…。ここで「待つ」と訳されている言葉は「チャカア」であり、本来「しがみつく、固執する」と言う意味があり、「待つ」と言われるようになったものである。

私達が神のさとしを待てなかったとき(つまり私達が神にしがみつくことのできなかった時、それは神の愛と義・神の目的を示し、私達の命の源である御言葉を通しての神との交わりと祈りによらなかった時である。)、私達は神がどのようなお方で神が何をして下さったかを忘れてしまい、さらに偶像と人の愚かさからして(a)人生の細かい事、快楽・地位・力・特権などのこの世のものに依存しはじめ(b)自分の考えで幸福・安心・満たしのために必要だと思えるものを求め始めるのである。

私達はそれぞれ自分に与えられた神の計画と定められた時に信頼し、神が必要を満たしてくださるまで辛抱しなければならないが、そのような時には必ず激しい闘いに直面する。このことについて14節は2つ目の問題を提示している。

二つ目の問題:「荒野で激しい欲望にかられ」 (14節a)

まずこの出来事が起こった場所に注目してみよう。それは「荒野」であった。聖書において、荒野や砂漠というのは自分が試される所である。私達の人生で神が用いられる場所や状況は私達の信仰を強め神と共に歩む事を覚えさせるためにある。そして私達が神の民にふさわしくなるように整えて行くためのものだ。

さらにこの荒野という言葉は私達に、私達がエデンの園にはもういないことを思い出させる。私達は荒野のように不毛で、問題に満ちた世界にいるのであり、主がいなければそこは渇ききった大地なのである。(詩篇143:6)

「激しい欲望にかられ」はその時、彼らが自分の運命を神に委ね、神のご計画に従うこと以外にどうする事もできない状況をよく表している。しかし彼らは、神が彼らを通して何をして下さってきたかを覚えて静まる事よりも、過去のエジプトでの肉・魚・きゅうり・メロン(90%が水)・たまねぎ・にら・にんにくのような快楽を求め、後ろを振り返った。なんとエジプトの奴隷であってむちに虐げられていた事を忘れるのが早い事か!彼らはこの世界のことに固執し、貪欲になった。そして新約聖書ではこの貪欲・むさぼりを偶像礼拝の一形式であると指摘している(エペソ5:5、コロサイ3:5)。

なぜむさぼりは偶像礼拝なのだろうか? それは私達がこの世界のもの(地位・権力・賞賛・快楽・意義・満足感)にこだわると、私達はそれらを何か安定を与えてくれる神々のように感じ、崇拝してしまうのである。しかし、そのようなものはただ、いけるまことの神のみが与える事のできるものなのである。

ただもう一度確認しておかなければいけないのは、食べ物・衣服・楽しみ(快よいこと)・愛・人生の意義・安定への欲求は神が本来私たちに与えてくださったものであり、何も悪いものではない(Ⅰテモテ6:17)。それら自体は罪深いものではない。ただ私達がそれらを神よりも自分の幸せを求めるようになったり、自分の人生を自分で支配しようとする時にのみそれらは罪深くなってしまうのである。その時、それらは私達の歩みが神の目的・神の定められた時のうちに歩む事を邪魔してしまう。それゆえ、私達は自分が欲しいと思ったものに飛びつくようになり、自分で必要を満たしてしまおうとしてしまうのだ。

「神を試みた」と言う言葉で詩篇の作者はむさぼりと言うものの性質を言い表している。私達が主を待てずにこの世界のものを幸福の源と考えむさぼるようになるという事は、神を試みると言う事になるのである。しかし神を試みるとは本当の所どういうことなのであろうか?

人は神の正しさやその御言葉の真理、神が良い事をしてくださるという事を神に証明させようとして神に傲慢な挑戦を突きつけている。しかも、自らの身の振舞い方がそのまま神への挑戦となっているのである(出エジプト17:2、申命記14:22、詩篇 78:18、41、56、95:9、106:14、マラキ3:15、使徒5:9、15:10)。マサという地名はこのような神への試みを永遠に覚えるためにつけられた(出エジプト17:7、申命記6:16)。このように神をせかして突っつく事は非常な不敬であり、神ご自身が禁じておられる(申命記6:16、マタイ4:7、Ⅰコリント10:9参照)。神の民はどんな境遇にいたとしても静かに辛抱し主を待つべきであり、神が約束されたように神が自分達の必要を必要な時に満たしてくださることに信頼しなければいけないのである(詩篇27:7~14、37:7、40、130:5、哀歌3:25、ピリピ 4:19参照)5

結果:「そこで、主は彼らにその願うところを与え」(15節)

つまり、彼らは幸せになるために必要だと思ったものを受け取ったのである。ついに彼らは自分達が欲しかったものを手に入れたのである。そして今や、彼らは幸せになり満たされたのである。しかし、本当にそうなのだろうか?決してそんなことはない!

神は私たちにご自身の考えを押し付けず、時には私達が自分に必要だと思ったものを手に入れることを得ることを許される。神は私達が自分の考えで人生を歩み、肉の力で歩もうとする事を時々お許しになるのである。しかしその結果は常に問題をひきおこし、私達は失望を味わうのである。そして結局は私達は自分の神への反抗を悔い改めて主に立ち返り、主から離れないようになるのである。

その先の結末:「彼らに病を送ってやせ衰えさせた。」

文字通り「彼らに病を送ってやせ衰えさせた。」のである。

歴史の背景から詩篇の作者はこの出来事を民数記11:1~35の出来事を考えていた。特に主が恐ろしい疫病によって人々を打った出来事をである(3~34節)。この出来事ゆえにその場所はキブロテ・ハタアワ「欲望の墓」と名付けられた。これは悲しい出来事ではあるが、すべての時代のすべての人にとって意味のある話である。特に「今の生活」にとらわれきっているこの大量消費社会に生きる私たちには他人事ではないのである。

「病」と「やせ衰える」という言葉にこの詩篇の作者は二つの意味を持たせているのではないだろうか。肉体的なものと霊的なものである。おそらく、彼はこの疫病の根底にある真の原因をこのような詩という文体の中で指摘しているのではないだろうか。

彼らの霊的な状態への神のさばきとして疫病がきたのであるが、この疫病はもっと深い所での彼らの霊的な問題からきている。彼らの心がやせ衰えている事からきているのである。これはその場所が「欲望の墓」と名付けられたことからも伺えるのではないだろうか。

彼らの内なる命がやせ衰えていた事は次のような事から分かる。(a)彼らが求めていたものが安定と喜び、満たしを与えると彼らは考えていた。(b)生きておられる主への信仰や確信の欠如。主と共に歩む力がやせ衰えている結果、彼らはこの世界の生活の事にこだわり人間的な方法で解決しようとした。彼らは自分の欲しいものを手に入れるために自分の小さなトリックの袋に手を突っ込んでしまうのである。彼らは神とモーセの両方に向かってつぶやき、不平を言い、非難するのである。

それではこの詩篇の作者が少なくとも部分的には、 頭に思い浮かべていた記事を見てみよう。これを見れば私達はいかに人間が、信頼にあふれて待つ ことよりも目の前の強い欲望 に傾くかを理解する事ができるだろう。

民数記 11:1-20 さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。 2 すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセが主に祈ると、その火は消えた。 3 主の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。

イスラエルの子は神の恵みと神の愛を試した。1節でのつぶやきは彼らが主を待てず、神のさとしによって心を育まなかったことでその心がやせ衰えた結果である。

4節以降の記事はまた別の出来事である。しかし根底にある問題はこれまで述べてきた事と同じであり主を待てずに心がやせ衰えて、その結果に起こった出来事である。

4 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。 5 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。 6 だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」 7 マナは、コエンドロの種のようで、その色はブドラハのようであった。 8 人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。 9 夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。

10 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。 11 モーセは主に申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。 12 私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け。』と言われるのでしょう。 13 どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ。』と言うのです。 14 私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。 15 私にこんなしうちをなさるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

16 主はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。 17 わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。 18 あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった。』と、主につぶやいて言ったからだ。主が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。 19 あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、 20 一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐きけを催すほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう。』と言ったからだ。」

詩篇106:14と同じようにここにも「激しい欲望」という同じことばが使われている。この共通のヘブル語は、「彼らが強烈に激しい欲望」を持つと言う慣用句である。ここでポイントとなるのは自分の望むものが手に入れば幸せになると言うサタンの欺きを信じて、自分の欲求に支配されていると言う事である。

4節は人が神と個人的につながっていない時、いかに簡単に誤った方向に影響されてしまうかをも示している。イスラエルは彼らのうちの混じってきた者達に間違った方向に影響されてしまった。このことは私達が誰か他の人の霊性に関わらずに生活することはできない事を示している。他人と関わらなければいけない以上、私達は自分の霊性を保つために、日々いける神と共に歩む必要があるのである。

泣いて肉を食いたいと言った事は彼らの不満の表れであり、信頼するとは正反対の態度である。

5節は間違った視点を持っていると、いかに愚かで皮肉な事が生まれてくるかをよく示している。彼らはエジプトで奴隷であった事はすぐに忘れたのに、エジプトの表面的な良さは覚えているのである。きゅうりにメロン、にんにく・・・!!!愛と恵みと力に満ちた神の素晴らしいみわざよりも、彼らはきゅうりやにんにくのような現世的なことを覚えているのである。

6節は私達がサタンの嘘を信じてしまい神のご人格やご計画から目を離したときに生じてくる不満や満たされない気持ちを示している。あなたがこの部分を読むときに忘れないようにして欲しいのは、大いなる祝福を与えてくださり、用意してくださっている神が、その約束の地に着いたとき何を与えてくださるかと言う事である。何を?乳と蜜である!

18節は神との関係についての警告を与えてくれる。問題なのは食べ物や彼らが欲しいものがなかった事ではなく、彼らの心の状態や彼らの視点・信仰の欠如なのである。

19、20節では失望と皮肉があらわになっている。幸せになるために彼らが必要だと思ったものは間違いであり、結局、私達に何も残さないのである。この箇所はもう一度私たちに、この世の事にとらわれる事は一時的な楽しみであっても決して心のもっとも深い所にある求めを満たしきってくれるものではないと言う事を教えてくれる。したがって、彼らが激しく欲望を持ったものはすぐに見るのもいやになってしまうのである。

原則 : 物質的なものは満たすことができない。私達は主により頼む関係を楽しまない限り、私達はつまらない事ばっかりで、結局新しい関係やもっと良い仕事環境・新しい趣味・もっと大きな楽しみなどを果てしなく追及していくのである。なぜそうなるのだろうか? なぜなら私達は正しい事 を探しているけれども、探している場所が全部間違っている のである。私達の焦点と根本はいつも主にいかりを下ろしていなければならない。主を待っている間、私達は私達を導き、私達の必要や求めを神の定められた時に神のお定めになった方法で頂けるよう祈り続けなければならないのである。

20節の後半では私達が満たされることのできない理由が述べられている。「それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして・・・」。この「それは、」はこの後の部分の導入の役目を果たしている。肉はもう飽きてしまった。それは彼らがそれを毎日食べたからではなく、彼らがもっとも大切な主との関係をないがしろにして、それよりも食べ物やこの世界の事にとらわれて、それらから幸福や満足を得ようとしたからである。聖書はこの事を主を否む と呼んでいる。

この箇所が示しているように、不満足の結果として現れてくるものは、様々な方法によって主を否む事である。彼らの不満と激しい欲望によって本質的には彼らは次のことを言っているのである:

    · 神は十分ではない

    · 神は私達が直面する逆境を助けるのに十分ではない

    · 神は自分のしていることが分かっていない。神は私達を荒野に死なせるために導き出したのだ

「なぜもといたエジプトから連れ出したのか?」と神に問い、不平を言う事は、神の知恵や愛、神の定められた「時」に彼らが信頼し、安らぐ事ができていないと言うだけではない。彼らは神が彼らを国々の中の祭司としての国として鍛え、建てあげようとしてエジプトから贖いだされたという神の目的を拒絶してしまっているのである。

なぜ神はそうされたのか?次の箇所に目を留めて欲しい:

申命記8:1 私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。 2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。 4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。 6 あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。 7 あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、 8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。 9 そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。 10 あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜わった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。 11 気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。

1節はイスラエルの子孫達に、神が神の民に最初から持っておられた目的を思い出させるものだ。2節は彼らに神の計画とその方法を覚えさせている。3節は神の試練と私達がこの世のもので決して満ち足りないことの理由を述べている。それらは私たちに主と歩む時こそ、完全に満たされることを教え、人生の全てにおいて、神を堅い基礎としてしがみついていく事を学ばせるものである事を示している。

私達は神だけが満たすことのできる空間をもって神のために創造された。神が私達を造ってくださったのだから私達はこの世界での祝福を楽しんでも良いのだ。しかし、主と共に歩まず、主の愛と恵みに本当に安らぐことなしに、私達はその空間を埋めることはできないのだ。

ピリピ4:11-13 11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

なぜ主を待つべきなのか?

主を待つことはどのような益をもたらし、逆に待たなかった時の結果はどうなるのだろうか?

主を待つために私達は主を待つことの意味とそれに関係する事を学ばなければいけない。しかし同時に私達はそれがなぜなのかも知る必要がある。従順のための鍵となるのは動機である。当然、主を待つことは強く私達を動機付ける事である。

神のご性質とその全能のゆえに

主を待つことは、「いのちの源として」ただ神にのみ焦点を当て続ける事を意味する。なぜなら神こそ聖さ・唯一性・支配・正義・恵み深さ・寛容さ・愛・全てに勝る力強さ・全能・全てに勝る知恵・真理・永遠性を持っておられる方であり、神こそ私達を満たしきってくださる方であるからである。

エレミヤは次のように書いている。

異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。(エレミヤ14:22)

ダビデも次のように言っている。

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。 (詩篇62:1-2).

ダビデは詩篇25:5でも次のように言っている。

あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。

これらの箇所の全てにおいて、私達が自分で問題を扱うよりも神を待ち望むべき理由が挙げられている。彼らは神がどのようなお方であるかを知っているから待ち望むのであり、私たちも例外ではない。よく知られたコマーシャルのように、私達は神の配慮・力・知恵・愛に満ちた御手の中にあるときは「良い取り扱いにある」と言う。しかし、私達は生来的な傾向として、さまよい、神から離れて歩もうとするので私たちにとって問題となるのは、私達がどのようにして主に焦点を当て続け、主により頼んでいくかと言う事である。

明らかに、これまでに述べたように、私達は待つことが主を捜し求める事を含むという事を認めなければいけない。つまり、それは御言葉を学び、黙想し、祈ることであり、これらの事が私達の目を主に保つことができ、私達を主に信頼させるのである。しかし、私達はどのようにして、常に主を求め続けられるのだろうか?

待つことについて述べているこれらの箇所は、私達の霊的な生活にとってきわめて根本的な聖書の原則のいくつかについて思い出させる。これらの原則を私達は毎日の習慣と忙しさの中で、時折忘れてしまうのである。私達があまりにも簡単に死んだ宗教的習慣に陥ってしまうので、これらの原則は私達の信仰生活の中に忘れ去られてしまうのである。このマンネリ化とはただ終わりのない墓であるだけなのである事を忘れないで欲しい。

もし私達が自分勝手に歩んできたのなら、つまり、主との時間を取るのに忙しすぎたのなら、私達はその事を認めて主を待つという観点で主に立ち返ろうではないか。ホセア12:6は、主の救いを待ち望むという視点に立ち罪を告白する姿勢を持って、この主に立ち返ると言う事をまさに示している。「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。」

詩篇39:7で、私達はダビデが自分が信頼しやすい朽ちるものではなく、主に希望を持ち、主を待つことを決心した姿がうかがえる。しかし、ダビデの決心は彼が自分の人生を自分で歩もうとする事のもろさを理解している事に基礎を置いており、その簡潔な表現がそれをいっそう強調している。「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。」

このしばしば「待つ」と訳される言葉は、「見る」という風にも訳される。それは注意する事、焦点を合わす事という考えを含んでいるかどうかによる。

詩篇123:1-2

あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。 2 ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。

また別に、詩篇145:15「すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。」(イザヤ5:17参照)、詩篇52:9「私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。」。ここでも、私達が主を待つべき理由があげられている。

結局何が重要なのだろうか?私達はどのようにして主を待てばよいのだろうか?ここで、聖書において名前と言うのは非常に大切な意味を持っていることを思い出してほしい。特に神の御名は大切である。なぜなら、神の御名は神のご性質を表しているのであり、つまり神が誰で、どんな方で、将来何をなさるのかを表しているのである。それらの性質は聖書の約束と原則に代表されているのである。例えば、ヤハウェの意味は、神はご自身が存在の原因であり、全く他のものに依存していないということを表しており、ご自身を啓示される救いの神ということである。神は他にも次のようにご自身を表しておられる。エル・シャダイは「全能の神」、エル・エイロンは「最高の神」、ヤハウェ・ジレ「主は備えてくださる」、ヤハウェ・ツィケヌ「主はわれらの正義」など。

それゆえに、詩篇の作者は神の御名を待ち望むといったのである。その御名に彼は神のご性質と約束を感じていたのである。

適用:

(1)あなたは自分ではどうしようもない状況にいるだろうか?物事がもうどうしようもないように感じられるだろうか?それなら、ただ一人この世界を支配しておられ、最も高い所に座しておられる全能の神を待ち望みなさい。

(2)あなたの必要が満たされていないだろうか?それなら、全てを備えてくださる方である主を待ち望みなさい。しかし、いつも神の目的と定められた時に従う心を忘れないように。

(3)あなたは自分の救いの確信が揺らいでいたり、罪責感に悩んだり、自分がちっぽけなものだと感じていないだろうか?もしそうなら、あなたの正義であり、キリストを通してあなたへの愛を表してくださっている主を待ち望みなさい。

詩篇62:5-6はもう一度私たちになぜ主を待つべきなのかを思い出させてくれる。「私のたましいは黙って、ただ 神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。 6 神こそ 、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。」(強調は著者による。)この詩篇でダビデは、神が自分の岩ややぐらのようであるからこそ、主を待ち望むのだと言っている。神のご性質を表現するためにこれらのことばは用いられており、様々な人生の状況において人が感じる神の性質を表している。ここでダビデは、動くことのない岩、攻め落とされる事のない砦として神を表現している。

人生は戦いと敵の攻撃に満ちている。私達は敵の攻撃に耐えることのできるよう自分を防御することが必要だ。だからこそ、私達は私達の力であり私達を堅く立たせる事のできる主を待ち望むのである。しかし、私達が主を待つべき次の理由を見てみよう。

私達の存在と私達の有限性のゆえに

確かに私達は神のイメージに従って創造された。しかし、人間性というものを考えた時、主なしにやっていくだけの能力も知恵もないのは明らかである。

詩篇52:6-7 正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。 7 「見よ。彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」

箴言14:12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

エレミヤ10:23 主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。

詩篇37:9 悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう

「何でもできそうな力強い人」とは主を待ち望む敬虔な人とは対照的である。「何でもできる人」とは自分自身で十分にでき、そのため主を待とうとしない人である。彼は主よりもむしろ自分自身に信頼しており、人生に対する自分の計画や考えを重視する。彼は悪を働いているのであり、自己中心性からまず他人を利用する事を考える。しかし主はそのようなものを切り落とし、根こそぎ引き抜いてしまう。神は主を待ち望み、主によって人生を満たして頂こうとする人の必要を満たすのである。

ここまで来て、何がいったい待つのをためらわすのであろう?私達が待ったとき何が私たちに起こるのであろうか?多くの素晴らしい事が私達に、私達の内に、私達を通して起こるのだ。

主を待つことで受ける益

待つことで支えられ満たされる(自分ではなく主が主役になる)

詩篇145:14-16 主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。 15 すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。 16 あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。

この箇所に「待つ」と言う語句は英語NASB訳聖書では見られないが、ここにある考えは明らかである。「すべての目は、あなたを待ち望んでいます。」という箇所はNASB訳では「見る」となっているが、KJV訳では「待つ」という意味をしっかり表した訳が用いられている。「主に全てがかかっている」というニュアンスで語られている詩篇104:27~28と比べてみてほしい。

しかし詩篇145:15の「時にかなって」という言葉は、主が私たちに「待合室」と定められた所で私達が座っている人生のある時期をよくあらわしているのではないだろうか?それは主の定められた時に従って、私達を満たし、支えてくださるように主にひれ伏し、ひざまずき、主を見上げて待ち望む事だ!いつでも私達は人生の多様な問題を何かしら抱えている。そこで私達は重大な決断―つまり主を見上げて待ち続けるか、問題を見つめて自分の解決を選択するか―をしなければならない。間違えれば、心配しすぎて、結局は逃げ出し、降参するであろう。なぜなら主をほったらかして走りまくったからである。

私達が待つこと(主を捜し求め、信頼し、見上げ続け、祈る)によって応えないのなら、私達は深刻な結果の及ぼす様々な影響に苦しめられる事になる。自分でまいた種は自分で刈り取る事になるのは当然の事ではないか:

(1) 身体的な問題を抱える事もある。(潰瘍や偏頭痛、高血圧など)

(2)経済的な問題の可能性もある。(破産による負債など)

(3)人間関係に問題を抱える事もある。(結婚の混乱による心痛、離婚、反抗的な子供)

(4)他にも困難な状況を抱える事もある。

(5) しかし何より、私達が待つことを拒んだ時霊的な損失がいつも伴う。—主との交わりを失う、霊的な知恵と力を失う、キリストの証人となれない、永遠の祝福を失う、神のみこころからそれてしまうなど

待つことによって、私達は新たな力が与えられる

イザヤ40:29-31 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。 31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

この箇所を見て次のような事が言えるのではないだろうか:

(1)精力のなさや、行動するための力のなさは、確かに他の原因もあるであろうが、主を待ち続けられなかった結果である場合もある。

(2)私達は皆、肉体的に疲れるだけではなく、感情的に霊的に落ち込むのである。それは人間だから仕方がないが、しかし、神は運動や休養のように、心身ともに健康を維持する方法として「主を待ち望む」ことを勧めておられる

イザヤは私達が疲れ、弱って行くのは主を待ち望めていないからだと教えている。私達が自分の力で走り回り、自分でことを行う時、遅かれ早かれすぐに息切れしてしまう。

鍵となるのは、「なぜ私達は主を待てないのか?」ということである。それは、しばしば私達が神のことを十分に理解していないからである。様々な理由から、私達は神が自分のことや今ある状況を理解してくれないと思ったり、本質的なところでは「神はこのことに関係ない」と言っているに等しい事を考え、行動しているのである。

イザヤ40章はイスラエルの指導者達に慰めを与えるために書かれている。神は全ての慰めの神である事を忘れないでいよう。神はご自身の民を慰めたいと思っている。しかし、この事は神が私達の苦しみや痛みの原因をいつでも取り除くという意味ではない。この章はイスラエルやユダ、他の国々に対する神の裁きが書き連ねてある39の章に立脚しているものであり、イスラエルは苦しみ、囚われの身となるのである。しかし、この捕囚でさえ神の愛の結果なのである。後に神はイスラエルをこの地に連れ戻し、メシヤを送ってくださり、イスラエルの罪の問題を解決し、いつの日か約束の王国を打ち立ててくださる。その間も、神がなさろうとしている慰めだけではなく、神のご性質を通して日々の生きる力も与えてくださるのである。

イザヤ40章は「あなたがたの神を見よ」の章でもある。6つの部分において、指導者達に「目を上げて、あなたがたの神を見よ」と言っている。民は主ご自身が必要なだけではなく、神の全ての神秘の中で神のビジョンを常に持っている必要がある。この章は、私達に神の偉大さを数え、自らの神についての理解を考え直させ、聖書のいう神に比べうるものは何もないことを分からせるための23個の問いが含まれている。この章は日々の私達の態度や行動に対して御言葉が持つ影響を示しているのである。

いかなる国・哲学者・支配者・人の作った偶像であろうと、神の知恵・知識・力を持つものなど決してない。神に命令できるものなどなく、神に助言できるものもいない。人間の作った神のようなものなどと比べられるものではない(そのようなものは人を永遠の存在である神から引き離そうとするだけだ。)。広大な天の御国であっても神とは比にならない。全ては神の創造物であり、主の御手のうちにあるのだ。

イザヤ40:27-28で取り上げられている問題を見てみよう。

イザヤ40:27-28 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。 28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。

あえて言うが、聖書信仰を持ったクリスチャンでさえこの事をしっかりと表明できている人は非常に少ない。こんな事を言われると、私達はこの事を確信していると強調して言うと思う。しかし、私達はこの箇所が述べていることを口ではいつも言っていても、神の計画と神がお定めになった生きていく上での原則を無視し、自分の解決や計画に訴えてしまう。傷つきやすい自分のエゴを守ろうとして他人をごまかしたり、人生が順調でないと取り乱したり、どんな道でも主を待たずに走って行ってしまうなど、様々な形で自分の道を行こうとするのである。知的には私達は神の配慮を確信していても、現実となるとそれをしばしば否定してしまうのである。

だから、28-30節は私達の知識と私達が本当のところどれほど神の御言葉を聞いていないかを問い正している。そして、すぐに私達の目を神に向けさせ、その神こそ全てに力強い方、知恵に満ちた方、私達の人生が苦しい時に必ず私達を力づけてくれる方である事を教えている。

28-29節の問いの裏にある考えはこうである:神は創造者だけではなく、個々の人間から天国のものまで全てのものの保持者であり、あなたはその神の民としての特権まで持っているのに、なぜあなたがたは神があなたを見捨てられたなどというのか?

この非難がどのような状況下で言われたかはあまり分からない…それは困難と逆境の時代のために述べられた普遍的な忠告である。6

この問いは彼ら(また私達も)の行動や思いを神の人格・神の原則・神の約束という観点から評価し非難するためにされているのである。なぜだろうか?それは彼らがあまりにも主を待ち望む民として、主に希望を持つことから離れてしまっているからである。

31節の約束に注目しよう:

イザヤ40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

まず最初に一般的な約束がある。「主を待ち望む者は新しく力を得…」 :これは必要な事をするために必要な新しい力の約束である。これは感情的・道徳的・霊的な側面も含んであり、当然、肉体的な側面も含まれている。なぜなら私達の体はしばしば霊的な状態によって影響をうけるからだ。

そして3つの明確な約束がある

(1)「鷲のように翼をかって上ることができる。」 これは主を待ち望む事により、人は主との関係や霊的な経験を深めていき、その事を通して人生の問題の中にあっても羽ばたき上る力を与えられるという事であろう。

(2)「走ってもたゆまず」 :走ることのたとえは、走ると苦しさが伴うように、神が人生の個々の厳しい状況にあってもそれを扱うだけの力を与えてくださる事を表している。

申命記10:20、13:4、ヨシュア23:8と比べてみてほしい。そこで用いられているヘブル語はダバグで「しがみつく、執着する、近くにいる」という意味である。しかし、申命記13:17やヨシュア13:11も見てほしい。エレミヤ13:11は、この語の意味をうまく言い表している。それはまさに腰の帯やベルトのようなものである。

(3)「歩いても疲れない。」 :歩くという事は私達の毎日の生活の全てを描いている。それは日々の生活ではあるが、しばしば平凡な活動や習慣になってしまう。身の回りのことが特に厳しくない時にさえ、私達は主を待ち続ける必要があるのである。

主を待ち続けた結果の祝福をなんと美しく完璧に表現したものであろうか!

詩篇42:1-5を見てほしい。

指揮者のために。コラの子たちのマスキール

5 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。 2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。 3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。 4 私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。 5 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め(ヘブル語でヤチャル。「待つ、期待する、希望を持つ」)私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

鹿が山地を越えてきて谷川の水の所で止まり、静まって、休息をとり、回復するのを思い描くことができる。5節と11節のヘブル語「ヤチャル」はしばしば「待つ」と訳される。

待つことはまっすぐな人をたて上げる

後に続く三つの箇所で強調されている事の一つは私達が主を待つことを学ぶ中で私達に起こる事である。それは待つという過程において私達の性質をつくりあげ、私達がただ主だけにより頼む事を学び、主のみをいのちの源、人生への保証、喜びと見るようにするのである。そのようにして、使徒パウロがピリピ4:11~13で言っているようなことができるようになるのである。しかし、ここでは詩篇37篇を見てみよう。

詩篇37:1-11 では三つのチャレンジが与えられている。

(1)先を見る。 2、9、10節は永遠に属さないものはいつか消えて行くという絶対的な真理である。私達は神の良しとされる時と神の目的を学ばなければいけないし、人間的な手段に訴える事をやめなければならない(7-9節)。ピリピ3:20も見ておいてほしい。

(2)見上げる。 問題や敵、厳しい状況、結果として害悪の多い態度や計画に捉われることは、やめるといってやめる事のできるようなものではなく、主を待ち、静まるという新しい視点で物事を見るとき、初めて変化し始めるし、やめる事のできる事である(3-8節)。

私達が説明した「主を待ち望む事」の意味を忘れないでほしい。それは主をさらに知り、愛するために時間を費やす事である。4節「主をおのれの喜びとせよ。」を見てほしい。これは「喜びを見つける。喜びをつかむ。」という意味であり、パウロとシラスが牢獄の中で祈りつつ賛美していたことを思い出さずにはいられない。

(3)生産的にある。これは積極的な意味と消極的な意味で発揮される。積極的な面としては3節の「善を行なえ。」「地に住み、」に見られ、消極的な面は1節と8節に見られる。7

    · 善を行う事は主のために生き、積極的に働くことを意味する。それは主に深く信頼しきるという事である。

    · いらいらせず、悪にしかつながることのない憤ることや怒ることをやめる。それは痛みを自分で何とかしようとしたり、自分の欲望を選ぶ事を脇に置くということを意味する(4節)。

    · 待ち、静まる事よりも悪を行い、イライラから出てくる事を行う事は、喜びや私達の必要への間違った方法につながる。

喜び…へのすべての間違った道に共通している事が一つある。それは私達が支配できる方法で生きようとすることである。それらの方法であれば私達は心から神に献身する必要がないからである。しかし神のメッセージは一貫していて、完全な主への信頼こそ満たされる唯一の道であるということだ。7

これらすべてのことの結果は6節である。「主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」のである。

すべての結果はこの6節に表されている。「主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」のである。それは賢い選択のできる、全く不足のない、みこころにかなった性質であり、自分で事を行おうとするよりも忍耐強い信仰によって主を待ち望む事を学ぶ信者の人生の中において、それらは表されるのである。

詩篇39:7-8: 罪の性質からの救い。

詩篇39:7-8 主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。 8 私のすべてのそむきの罪から私を助け出してください。私を愚か者のそしりとしないでください。

詩篇40:1-9:従うことによる揺るぎなさ。

詩篇40:1-9 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、 2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。 3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。 4 幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。 5 わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。 6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。 7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。 8 わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」 9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押えません。主よ。あなたはご存じです。

待ち望む事は私達を絶望から引き上げ神への賛美をひきおこす

詩篇40:2-3 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。 3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。

詩篇42:5-11 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。 6 私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。 7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。 8 昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。 9 私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」 10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるか。」と私に言っています。 11 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。

詩篇43:5 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。

詩篇145:15-21 すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。 16 あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。 17 主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。 18 主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。 19 また主を恐れる者の願いをかなえ、彼らの叫びを聞いて、救われる。 20 すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。 21 私の口が主の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。

私達が絶望し、落胆している時、私達はうめき、愚痴り、不平を言う。しかし、主を待ち望む事は私達の目を主に、そして私達の栄光ある将来に目を向けさせるのである。それゆえ、私達の心の中に賛美がわきおこり、口が神をほめたたえるのである。

待つことで私達は他の人を励ますことができ、主の証人としてさらなる力を与えられる

詩篇40:1、5、 9-10 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、… 5 わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。… 9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押えません。主よ。あなたはご存じです。 10 私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。

詩篇119:43-44、74 私の口から、真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私は、あなたのさばきを待ち望んでいますから。 44 こうして私は、あなたのみおしえをいつも、とこしえまでも、守りましょう。… 74 あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。

私達の生活や人生が他人によい意味でも、悪い意味でも大きな影響を与える事を私達は軽視してはいけない。他の人によい言葉をかけ、よい証をして行くのは私達が主を待ち望まず、主に安らぐことなしには非常に難しい事だ。

ダビデは賛美の詩(1-10節)と、祈願の詩(11-17節)を含む詩篇40篇を困難な状況にあるときに書いた。まず彼は過去の神の救いのみわざを賛美し、神に信頼するものが祝福を受ける事を述べている(1-4節)。

詩篇40:1-12 指揮者のために。ダビデの賛歌

1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、 2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。 3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。 4 幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。

次に、彼は神の比べる事のできない性質を告白し、自分のすべてを神ご自身と神の目的に捧げ、献身を表している(5-10節)。6-8節はダビデにだけでなく、後にイエスにも適用されている(ヘブル10:5-7)。

5 わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。 6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。 7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。 8 わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」 9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押えません。主よ。あなたはご存じです。 10 私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。

三番目に彼は主の前に自分の現在の必要を訴えている。しかし、その必要とは神への知識、苦境にあって彼の心を支える神の真理である(11-12節)。

11 あなたは、主よ。私にあわれみを惜しまないでください。あなたの恵みと、あなたのまことが、絶えず私を見守るようにしてください。 12 数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。

最後に、彼は神に敵から救い出して、敵から守ってほしいと叫び願った。しかし、遅れないで欲しいと言っているが、すべてにおいてその彼の動機は「主が栄光を受けられるから」である。そのため、彼は唯一の助け手、救い主として主を待つことに献身しているのである(13-17節)。

13 主よ。どうかみこころによって私を救い出してください。主よ。急いで、私を助けてください。 14 私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き、卑しめられますように。 15 私を「あはは。」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のために、色を失いますように。 16 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう。」と、いつも言いますように。 17 私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。

結論

あなたが今まさにその時にいるかどうか私には分からないが、状況がどうであっても聖書が与えるチャレンジは主を待つことである。それは私達が住むようなすぐに消え行く世界や、有限な人間のようではなく、すべての支配者である主が私達を決して変わらず愛し続けておられ、父親のように個人的に私達に配慮し助けて下さるからである。それゆえダビデは詩篇103:13-19にあるように述べたのである:

13 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。 14 主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。 15 人の日は、草のよう。野の花のように咲く。 16 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。 17 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、 18 主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。 19 主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。

待ち望め。主を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め。主を。


詩篇27:14


1 Mark S. Wheeler, “Hurry Up and Wait,” Kindred Spirit, Autumn 1991, p. 11.

2 G. Abbott-Smith, A Manual Greek Lexicon of the New Testament, 3rd edition, T. & T. Clark, Edinburgh, 1937, p. 384.

3 Ibid., p. 46.

4 Ibid., p. 31.

5 The New Bible Dictionary, J. D. Douglas, general editor, InterVarsity, Downers Grove, 1982, electronic format.

6 Young, The Book of Isaiah, Vol. 3, Eerdmans, Grand Rapids, 1971, p. 64.

7 Larry J. Crabb, Understanding People, Zondervan, Grand Rapids, 1987, p. 109.

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