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母親達へ (Reflections for Mothers - Japanese)

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Translated by Masazumi Fujiwara from the English.

序文

母の日には様々な家族がその母親に対していろんな方法で感謝をする。カードや花、朝ごはんを作ってあげたり、マクドナルドに行ったり、昼食をレストランで食べたり、長距離電話、特別な贈り物・・・。このように母の日は母親に感謝する一つの機会であり、そうあるべきだ。しかし、非常に多くの場合の母の日と言うのは、普段母親を、軽視したり尊敬せず悪い事ばっかりしている事への償いみたいな側面があって、本当に感謝しているのかどうか疑わしい所がある。これはアメリカ人には特に多い事であり、偽善的とすら言ってもおかしくない!

この学びでは母親と家族全体に対しての聖書の考えを学びたいと思う。

社会に対しての評価

クリスチャン、ノンクリスチャンに限らず最近のほとんどの学者が、次のような社会の傾向を認めている。それは、西洋社会の人間は、ポスト・クリスチャン(キリスト教に代わる次の時代)の時代を生きているということである。言い換えれば、もはやキリスト教国家と言うものがもう存在しなくなっているのであり、しかもそれは、ここ30年ほどの間の私たち自身の選択によるのである。硬貨(アメリカの)には、まだ「我々は神に信頼する」と書いてあるのに、確かに私たち自身の決断(60年代からの)によってこの国は神に信頼しない国となってしまった。私たちは神に信頼するような形式は持っていても、行動や考えにおいて神の力と神のリアリティを否定している。1

私達がポスト・クリスチャンの時代に生きているということはどのような事を意味するのだろうか?キリスト教は死んでしまったと言う事だろうか?もちろん、そうではない。それは決して絶える様なものではないからだ。長い年月を越えてのサタンの世界の反逆を予想して、主は、ご自身が教会を建てる事とハデスの門もそれには打ち勝てない事を言われた。(マタイ16:18)ポスト・クリスチャンと言うのは、一度はこの国の社会や道徳に聖書が影響力を持っていたが、今ではそのような光景を見つけるのさえ難しくなってしまった事を言う。この影響は道徳だけではなく、生活のすべてに関わる事である。教育、性、政治理論、法律、正義、家族、そして特に子育てが現在、人間中心の考えから誤った影響を受けている。

特にその道の専門家でなくても、なんと全ての人が生活に関する全ての事について自分の考えを持っている。特に、今日のノンクリスチャンは聖書から離れた考えを持っている。人々は思考の中から神を除き去って神の言葉よりも人間の考えの方を優先する。悪どい政治家のように、ノンクリスチャンの中には聖書から引用を持ってくる人もいるが、それはただ単に宗教的な権威のかさをかぶっているにすぎないし、シェークスピアなどの人間からの引用と同じ扱いにしかしていない。

この学びでの私たちの主題は家庭や家族であり、特に、母とはいかにあるべきかという事である。では、ポスト・クリスチャンの時代が家族に与える影響は何なのであろうか?それは単純に、人間の理性や世間のヒューマニズムに影響されて家族や家庭、結婚や育児をこれまでのあり方から解放しようとするものである。この事は、男のあり方や結婚のあり方、そして子供や母親、家庭にとっての正しい考えを人間の理論で考えようとすることになってしまう。しかし、創世記3章にあるように全ての人間は堕落しており、子供は生まれながらに罪ある性質を帯びており、母の胎にいるときから霊的に盲目である。(詩篇58:3)

対照的にクリスチャンは、結婚や、子育ての責任、家庭に対して、誤りがなく・もっとも権威のある神の言葉、聖書に従って考えようとしている。これらの御言葉の真理は私たちの考えや行動を形作るだけでなく(子供の心を形作っていく家庭を含めて)、正しく矯正し私たちの人生の絶対的な導きになるのである。私たちの考えや意見は、私達がどれだけ神の御言葉である聖書に基づいているかによって正統的なキリスト教の考えとなる。

もちろんこれは非常に重要な事である。ノンクリスチャンは結婚、家庭や子育てに対して基本的に、起こりも目的もヒューマニズム的で人間中心の考えを持つと思われる。しかし、危険なのはあまりにも多くのクリスチャンが同じような考えを持ってしまっている事である。多くのクリスチャンは自分ではクリスチャンだと思っているが、実際は一部分の考えにおいてだけ聖書的であり、その事さえ自覚していない。彼らは神と聖書が私たちにとって完全に十分なものである、と認めるだろうが、彼らは自分自身の意見・考え・感情を家庭の全ての面で聖書の権威に従わせなければいけないことを分かっていない。

ローマ12章2節「この世と調子を合わせてはいけません(この世のもので物事を確かめるような事をしてはいけない)」のような文は第一義的に道徳に関するものであって、子供の教育や結婚の問題に関することではないと見てしまい、このような問題に対しては心理学者や社会の専門家の意見を聞く必要があると考えてしまう。しかし、これは結局、二元論的なものの考え方(この世界は聖なるものと俗なるものに分かれると考える)に陥ってしまう。二元論は御言葉が宗教的な領域でのみ完全であり、生活の他の部分では他のもので補われなければならないと考えるようになってしまう。しかし、聖書的なクリスチャンにとっては、全てのものが聖であり、俗なるものなど何一つないのである。教育、経済、法律、政府、労働、性、結婚、子育て、全てにおいて私たちは聖書の真理に思いを向けなければならないのである。

箴言からの見解

箴言31:10~31

10 しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。 11 夫の心は彼女を信頼し、彼は「収益」に欠けることがない。 12 彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない。 13 彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。 14 彼女は商人の舟のように、遠い所から食糧を運んで来る。 15 彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使の女たちに用事を言いつける。 16 彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、自分がかせいで、ぶどう畑を作り、 17 腰に帯を強く引き締め、勇ましく腕をふるう。 18 彼女は収入がよいのを味わい、そのともしびは夜になっても消えない。 19 彼女は糸取り棒に手を差し伸べ、手に糸巻きをつかむ。 20 彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる。 21 彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。 22 彼女は自分のための敷き物を作り、彼女の着物は亜麻布と紫色の撚り糸でできている。 23 夫は町囲みのうちで人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く。 24 彼女は亜麻布の着物を作って、売り、帯を作って、商人に渡す。 25 彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。 26 彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。 27 彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。 28 その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。 29 「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている。」と。 30 麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。 31 彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。

この箴言の箇所で、御心にかなった妻・母親とはどのようなものかというのを神は教えておられる。この箇所で、妻として母親としてあるべき姿を私たちは見る事ができる。それは、常に家事に気を配り使用人にまで家族と同じような扱いをし、常に仕事にも気を配り、また社会の中で彼女が助けることのできる人々にまで気を配る事のできる女性だ。このような女性を神は、「すべてにまさり、宝石よりもはるかに価値がある」と褒めている。この女性は少なくとも5つの性質や気質がある。それを見る前に、この「すべてにまさる」と言うように訳された言葉を見てみよう。

この言葉はヘブル語の「チャイル」で、「強く、能率的」と言う意味である。この言葉の力や性質を示すために、この言葉が聖書中でどのように使われているかを示してみようと思う。NASB訳で「できる」とされたものが5個、「力」が10個、「軍隊」が82個、「勇敢な」が40個、「潜在力がある」が3個である。箴言31章の文脈からして、それは道徳的な強さだけでなく、家庭内での能力や能率のよさも含まれていると考えられる。

この5つの性質は

I. 献身的な妻である。(11,12,23節)彼女は夫の信頼を得ている人であり、夫の繁栄(福利)と評判を高めようと勤める。

II. 絶えずそばにいるパートナーである。(13~17、18b、19,22,24節)神の視点を持った女性として彼女は喜んで働き、賢い買い物をし、家族のために働く事のできる計画を立てる。それも彼女がそのような働きがベストにできるように霊的にも肉体的にも常に自分を整えているからである。(18a、25節)

III. 必要のある人や貧しい人の忠実なしもべである。(20節)彼女は家族だけでなく社会に対しても働くビジョンを持っている。

IV. 信頼できる母親である。(15,21,27節)彼女は家族の必要のために献身する。彼女は身だしなみがよく、魅力的で、落ち着きがあり、しつけがよい。そして子供達へのよい証となっている。

V. 教理をしっかりと持った女性である。(26,18節)彼女は神の知恵に満ちた女性である。

え~・・・、これを聞いて、あなたはこのようにおそらく言うでしょう。「やってられない!こんなの女性じゃない!スーパーウーマンよ!」確かにその意見は真理に近いが、正確ではない。なぜなら、これが描く女性は、超自然的な神と共に、超自然的な方法で生きる女性なのである。

この箇所を見ると、妻や母親になると言う事はどの時代の人にとっても、とてつもなく厳しいことであることが分かるだろう。しかし今日の時代は、ゆがんだ価値観や世間のヒューマニズムの侵入、道徳の崩壊に直面しているため、この事はさらに厳しいものとなっている。そして、多くの場合教会の助けがなく、夫の助けもないシングルマザーにとっては特に難しいものである。

でも、ここで一つ言わせて欲しい。御心にかなった母親以上に社会にとって重要なものはない。家庭は社会の基本であり、父親は家族がどこに行くかに責任があり、母親はその家族を一つにまとめる糊のようなものだからだ。

この事は真実であり、母親は社会にとって、また個々の家庭の私達それぞれにとって非常に重要であるから、次に母親や家族が直面する問題を考えてみたいとおもう。その事によって、母親の役割を守る事になるし、私たちの母親への考えも豊かになるであろう。

家族に対する意見

この学びの序文に述べたように、私達は家族、特に母親の役割を壊すような価値観の変化や誤った考えに直面している。恐らく、Virginia Slims のあの有名なキャッチフレーズ「ここまで来るのに、長いことかかったわね。」(注1)がこの社会をもっともよくあらわしているだろう。

私たちの社会に対する、この世が持つ誘惑をRita Carverはその著書「仕事をする」の中で論じている。その中では次のように言われている。「今日の世界でも、母親というものは、まだ消えてしまっていないのではないかと不思議に思う人もいるかもしれない。私たちのようなフェミニストのうちの中には次のように言う人がいる。働かない母親として私達は8年間でできる仕事を持っているメイドに過ぎない。」

Erwin LutzerはアメリカでのERA(男女平等権修正事項運動:注2)についてその著書「アメリカを崩壊させるかもしれない誤った考え」で適切な事を言っている。

ERAは何が間違っているのだろうか?それは「平等」という言葉の理解・定義が問題なのである。フェミニストはそれを、社会において女性が関わる全ての役割について、女性は男性の代わりを務めることができその意味で平等性をもつと解釈している。男性のすることは何でも、女性もすることができる。全てのジェンダーによって規定付けられた役割はなくさなければならない。結局、フェミニストの前衛的な印象によって、メディアは女性がどのように振る舞い、どのようにあるべきかと言う伝統的な考えをなくそうとしはじめるのである。女性らしさや母親の役割が尊敬されていた時代はもう過ぎ去ってしまったのである。

ドクター・ジェームズ・ドブソンのラジオ番組「家族は今」で、視聴者が公共図書館で何千の本が捨てられていることを投稿していた。調べてみると、それらの本は伝統的な父親と母親の役割(父は家族を養うために働き、母は家で子供を育てるという)に基づいたものであった。今では、棚には家庭の外で自らの職歴を求めていく「現代的な」女性を描いた本が並べられてある。子供達は保育所に入り、父も等しく子育てに関わる。このような考えの下では女性はあらゆる点において男性と等しいのである。

急進的なフェミニストははっきりとしたゴールを目指している。この過程で、結婚や、子供、宗教についての伝統的な理解は必ず除かれなければならないと彼らは考えている。女性の役割はもう一度定義し直され始めている。

私達がこの世の考えや価値観を取り入れるように仕向け、神に背こうとさせる力が、常に私たちに働いている事を、聖書は繰り返し警告している。

ローマ12:2

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

Ⅱテモテ3:1~5

1 終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。 2 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、 3 情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、 4 裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、 5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

このⅡテモテの部分を考えるにあたっては、2:25~26からのつながりに注意を払わなければいけない。また、3:1の警告と「終わりの日」を特徴付けるもの(自己愛)にも注意しなければいけない。自己愛は明らかに、キリストの体として重要な、他人に仕える精神に反対するものだ。

この自己愛に関して、Ⅱテモテ2節の中に明らかに家族に関係するものが3つある。①両親に従わない者、②汚れた者(ギリシャ語ではアストルゴスといい近親を愛する者の意)、③神よりも快楽を愛する者、これら3つがあるとき、家族は社会において保護的な役割を持たなくなってしまい、崩壊する。そして、急進的なフェミニスト運動では、これら全てが見受けられる。

母親は二つの大きな力に直面する。一つ目はサタンの欺きとサタンに支配されたこの世の仕組みである。そしてそれは家庭を特に母親を崩壊させる事を意図している。というのも、家庭というものが(その中でも母の役割は大きい)社会の安定にとって重要な役割を担っているからである。サタンのはじめの攻撃は人類の母(エバ)に行われたのであり、それはすぐに家庭にも大きく影響した。

しかし、一つ目を後押しする、もう一つの重要な力がある。それは、男性が女性を粗末に扱ってしまうことだ。男性の間違った女性に対する扱いは、女性をこの世の考えやヒューマニズムになびかせる下地を整えてしまうのである。

Richard FowlerとWayne Houseはこの事を著書「危機にある文明」で述べている。

働く女性に対してクリスチャンが持つ問題は、歴史上のフェミニスト運動と夫と妻に対して神が持っておられる考え(創世記1~2)の誤った理解からきている。根本にある誤解は男性と女性の創造の平等性ではなく、夫と妻の役割の創造の平等性にあるのである。

一般的に、一般の世界(福音主義的クリスチャンも含んで)では、伝統的な家族構成は、男性が優れた支配者であり、女性は劣ったしもべというように考えている。この考えは、神が目的とされたあり方からとてつもなく離れている。一方、フェミニスト運動は逆の方向に触れすぎている。つまり、神が与えられた家族構造とそれぞれの役割をほとんど否定している。

それを図示すると次のようになる。

 

フェミニズム

聖書

「伝統的な」歪んだ考え

権威

ヒューマニズム

聖書

聖書の誤った解釈

平等性に対する考え

3つとも同じ

役割に対する考え

違いなし

違いあり

違いあり

態度

この関係から私は何をもらえるのか?

この関係に私は何ができるだろうか?

どのようにこの関係を維持しようか?

私達は両極端の破壊的な影響に警鐘を鳴らさなければならないし、生活の中でその事に気をつけて修正していかなければならない。

父親への意見

エペソ5:23~29は体のかしらとしてのあり方を明確に述べている。この箇所は妻のかしらとしての夫に対する神の考えをしっかりと述べている。それは妻の監視役ではなくしもべのように妻に仕える責任を示している。この訓戒を忘れる時、私達は次のような罪を犯してしまう。

I. キリストと教会の関係を定める結婚という神の考えに従わないことと、それを破壊した事において神に罪を犯す。

II. 妻の必要に対して適切に対処しなかった事において、妻に罪を犯す。

III. 私たちの行動や姿勢によって子供に影響を与えた事において子供に罪を犯す。

I. キリストが教会の救い主であるように、夫は妻に対してテーブルに食事を並べたりするだけでなく、感情的、霊的、肉体的にそして精神的に妻を助けなければならない。私たちの妻は必要としているものがたくさんあるのに、多くの男性は、妻の繊細さや必要、考えなどに無関心だ。(Ⅰペテロ3:7)しかし、男性の中には自分が妻から何を得ることができるかしか考えていなくて、配偶者の必要に盲目でいる者がいる。彼女が髪形を変えたり、新しい服にしてもそれに気付いているだろうか。彼はこういうだろうか?「やあ、その髪いいね。気に入った。すごくいいよ!」他にも、彼女が考えていることについて話すためにだけ時間を割いているだろうか?あまりにも多くの場合、答えはノーである。男は仕事や自分の趣味などに気を配るけど、妻が気に留めて欲しくて、愛されたいと思っていろんな振る舞いをしている事に気付いているだろうか?

II. どのように妻を愛すべきかを示すために二つの例を挙げてみよう。私達はまさに自分の体そのものとして、キリストが教会を愛したように妻を愛するべきである。自分がして欲しい事を妻のためにしているか?自分が避けたいと思ういやな事を彼女のためにしないようにしているか?家庭生活の中には、夫が妻のために気を使い、愛する機会が満ち溢れているはずである。

子供達に対する意見

箴言31:28「その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、」母親はほとんど普段感謝されていない。彼女はリトルリーグやバレエ、ピアノに連れて行ってくれる。また、おなか一杯になるようなおいしそうな食事を作ってくれるし、苦しい時にその肩で泣かせてくれる。あなたの反抗や、無視、さげすみに対しても優しく忍耐を持って受け止め、口には出さないけど怒るような態度をほとんど見せない。それは彼女は決して悪に屈しることがなくまた、あなたを愛しているからだ。

あまりにも多くの場合、「お母さん、ありがとう。本当に感謝しているよ。」と言う言葉を、母親は聞きたいのに聞くことがない。

エペソ書でパウロは二つの命令を約束をつけて述べている。

エペソ6:1~3

子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。 2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、 3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。

神は子供が親に従い尊敬する事を非常に重視している。そのあらわれに、神は旧約聖書において、この重要な教えを特別な祝福をつけて与えている。この約束が与えられた旧約聖書の文脈から、国への神の祝福などの全てに先立つものとして、この約束は与えられている。そして、この事のゆえに約束の地で人々は神の保護のもとに生きることができるのである。この事は、家庭が崩壊する時、社会全体も崩壊する事を意味する。イスラエルにとって、この事は、神の言葉への不従順を招いた。そして、究極的にもし悔い改める事をしないのなら、究極的には申命記28~30章の、のろいの言葉と離散を招く事になった。

親に従う人への祝福は、繁栄して地上で長生きすると言う事である。従順は自己訓練になり、結果として、安定と長寿を得ることができるという一般的原則がここに見られる。(逆に、自己訓練の出来ていない人が長寿を全うする事は、ありそうもない事だ。イスラエル人で両親に従わない者は長寿で安定した人生を送る特権を失ってしまう。分かりやすい例が、エリの子、ホフニとピハネスである。[Ⅰサムエル4:11])旧約聖書ではこの約束はイスラエルに与えられていたが、この原則は今日でも変わることはない。

従順と言う事を神がどれほど重視しているか分かっているだろうか?非常に重要であることをⅠサムエル15:23では、反逆、不服従(不従順と不敬)、占い(悪魔的行為)、偶像礼拝にたとえている。

両親を敬うとは、尊敬し、彼らの意見を重視し、彼らの教えに聞くことである。もしかしたら、あなたの両親は昼ごはんの時にはいないかもしれないし、あなたの事を分かってくれないとあなたは思うかもしれない。しかし、彼らはあなたの事を思っているし、いつもあなたの事を守ってくれているのだ。

母親への意見

母親に要求されるもの

箴言31章に見るように、母親への要求はおそるべきものだ。この要求のうちのいくつかを上げてみると、献立を考える事、日用品の買い物、食事の準備(しばしば、やかましい子供や夫のために)、家族の服の買い物、裁縫、洗濯、アイロン、掃除、そのほか、腕の怪我から鼻水まで家族の必要のために気を配り、隣の子供との喧嘩から自分の子供を守り、ボーイフレンドとの口論までも。そして、宿題も(必要なら家庭での教育)、おまけに、こどもの習い事とか医者に連れて行くとかのために送り迎えしてあげることなど。数えあげればきりがない。

どのようにしたらこんな事を分別を持って、力強く、しかし喜びを持ってすることができるのだろうか?

母親に必要なもの

愛し、気を配ってくれる家族に加えて、ルカ10:38ではもう一つのとてつもなく重要な事が述べられている。これは対照的な話である。自分の責任に心を悩ませる女性マルタと御言葉を聞くために救い主の足元に座って話を聞く時間を見つける女性マリアである。(このマリアは主の埋葬の準備のためにその足に香油を塗った女性と同一人物である。)彼女は主の人生と死の真理の奥義を知っていた。弟子でさえ霊的に鈍くてできなかったのに、どのようにしてこの女性はこれらの事を知ったのだろうか?それは彼女が主の御言葉を聞くためにその足元に座ってその必要を見ていたからだ。

自らが、マリアのような優先順位を持っている母親のみがキリストの死の神秘に入っていく事ができ、その事によって超自然的な力を受けて、キリストの御性質に満ちた生活を過ごすことができる。このことは決して母親としての責任を無視するものではなく、主をもっとも優先し、彼女の人生をキリストの人生そのものにまで高めてくれるのである。

母親にとっての危険

危険なのはマルタのようになる事であり、家族のために働き、生活の細かい所まで気を止めすぎて、精一杯になり救い主の御許に座る事が後回しになっている女性である。確かに、主とその仲間達に仕えることはマルタにとって必要な事であった。しかし、そんな事は主のもとに座るのと比べれば、比べ物にならないはずである。

ルカ10:40節の「落ち着かず」はギリシャ語では「ペリスポウ」といい、「引っ張られる、引き離される、孤立する、それる、背負いすぎる」という意味を持つ。そして結果はどうだっただろうか?40節の後半部分でのマルタのお願いから、彼女がもてなしと心配で一杯一杯で、憤りや緊張、自己憐憫さえ持っていた事が伺える。ここには喜んでキリストとその仲間に奉仕する姿はほとんどない。

逆によい例としては、マルコ6:31の、弟子達が非常に忙しい働きをしてきたあとに救い主のアドバイスがよい。これは母親だけでなく私たち全てにとって、重要なものである。私達は皆、主の御言葉に聞く、一人で静まる質の高い時間が必要である。それも、私たちの性向は、忙しさの中では周りを流れていく事で自分の必要を満たそうとするからである。自分を守り、自分を回復させるために、一人で神と共に過ごす時間を見つける事の最高の例が主イエスである。(マルコ1:35)

母親に対して一つ聞きたい。あなたは御言葉を聞くために主の御許に座り、自分の重荷を彼に委ねるための時間もないほど忙しいのだろうか?

パウロ書簡の中でも家族やクリスチャンホームを扱った重要な箇所が2つある。それはエペソ5:22~6:4とコロサイ3:18~21である。しかしこれらの箇所を考える時に重要なのはその文脈である。(実がなるためにはその根が重要なのと同じだ)エペソ書では、文脈はキリストの知恵にあって御霊に満たされて歩むと言う事であり(エペソ5:15~18)、コロサイ書では、主イエスの力と御名による御言葉に方向付けられた生活である。(コロサイ3:16~17)

この超自然的な神の助けがなければ、夫も妻も、父も母も決して神の望まれるようにはなれないし、家族の生活の必要に応える事もできないのである。

申命記6:6~7で、主がイスラエルに、常に子供に教えなさいと言われる前に、主は最初になんと言われたか覚えていますか?「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。」

同じような強調が申命記4:9にも見られる。

申命記6:6~7

私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。 7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

申命記4:9

ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。


1 この序文で述べた考えのいくつかはPreparation for Parenting, A Biblical Perspective, by Gary and Anne Marie Ezzo, p. 11f. からとられている。

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