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(僕とは―キリストが示した模範(ヨハネによる福音13:1‐14:7) (Christ's Example of Servanthood - Japanese)

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はじめに

先日ラリー・クラブ氏のセミナーに参加したのですが、そこでクラブ氏は心の問題にどう対応すれば良いのか、また不道徳な世界にどう対処すれば良いのかを話されました。私たちは自分に都合が良いように他人を操ろうとするのではなく、人々に証をするべきであると言うのです。たくさん良いお話しを聞きましたが、セミナー以来、人々を操るのではなく証をするべきである、という言葉が頻繁に思い出されます。

私の父が教えてくれたことの中でも、父が特に強調していたこともまた、私たちの目的は幸福で世間に適応したクリスチャンになることではないということでした。私たちがそのようであるべき理由は、人々に証をすることができるようにであるというのです。

ヨハネの福音書13章を読むと、これらのことについてたくさんのことが書かれているのが分かります。そこで今日はヨハネの福音書の13章と14章の一部から、僕であることについてどのように教えられているかを見ていきたいと思います。

聖句を以下のセクションに分けて読んでいきましょう。

I. 仕えることに関するキリストの模範 13:1-5

II. 私達の奉仕の基本となるもの

A. 過去と向き合う 13:6-20

B. 未来と向き合う 13:33-14:7

各論

I. 仕えることに関するキリストの模範

聖句を読むときには動詞と分詞に注目しましょう。なぜなら、それらが往々にしてセクションのアウトラインを構成していて、主要な教えを理解する手助けとなるからです。はじめのセクションでもそれらに気をつけて読んでいきましょう。

1節にある主要な分詞は「悟り」と「愛して」、2節では「とき」、3節では「悟り」です。また主要な動詞は4節の「立ちあがって」、「脱ぎ」、「まとわれた」です。

まず、4つの分詞を見ていきましょう。4つの内3つが原因分詞で、キリストが行ったことについての原因や理由を表しています。そこで、私達はこれらを「悟っていたから」、「愛していたから」等とも解釈することができます。

A. 理由

1. 父のもとへ移ることを悟っていたから

13章1節に「御自分の時が来たことを悟り」とあります。これに対して12章までを読むと、「イエスの時がまだ来ていなかった」(2:4、7:30、8:20)と繰り返し書かれています。けれども13章ではキリストが十字架にはりつけられる前夜でした。キリストは十字架にかけられようとしており、それを知っておられたのです。これはとても重要な点です。このこと全体を見る場合にその事実を心に留めておかなくてはなりません。キリストは同情を買うために人を集めたり、これから彼に起ころうとしている事に動揺したりされませんでした。

法則: 自分がどんなにひどい状態にあろうとも、他人に仕えない理由とはならない

時に私たちは自分が抱えている問題に精一杯で、他人の問題などに構ってなどいられないと思ってしまいます。

それどころか、自分の置かれた状況が本当にひどい場合には、他の人が自分を助けるべきだとさえ思います。まあ当然でしょう...お金が無くなってしまったかもしれない、病気になってしまったかもしれない。けれどどのような問題に直面したとしても、私たち自身と自分の抱えている問題だけしか見ようとせず、他人のことなど省みないとしたらどうなるでしょう。そんな時でさえ他人から必要とされれば手助けするべきなのでしょうか。

問題は私たちが私でなくてはならないのに、生まれつき私、つまり自分本位になる傾向があるということです。

もう一つの興味深い点は、新約聖書全てを読むとキリストが笑われたり微笑まれたりということが書かれた箇所がないということです。一方、キリストが泣かれたり悲しまれたりといった記述はあります。笑う事に関した記述は、例えば「今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」(ルカによる福音書6:25)のようなものしかありません。

興をそごうとしている訳ではありませんが、このことは私に堕落した世界に暮らすことはあまり楽しいことではないということを言っているように思います。私たちはイエスやパウロたちが味わった苦しみと拒絶を見ることができますが、彼らがそれにも関わらずどういった対応をしたかも見ることができます。私たちはこの世界で何が起こるかを知り、驚かされることなくそれらを超越した生活をしなくてはなりません。

なぜキリストは自分自身を哀れに思われなかったのでしょうか。

聖句が何と言っているのかをもう一度見ましょう。キリストは何をご存知だったでしょうか。この世を離れ父のもとへ戻ることです。では、聖句が言っていないことは何でしょう。聖句では「彼は死が近いことを悟り」とは書いてありません。

キリストはご自身がこれから恐ろしい死を迎えられることをご存知だったはずです。それでもキリストの心は世を去ることの悪い点―つまり痛みや苦しみにあったわけではありませんでした。キリストの心はむしろ良い点に向けられていました。彼は父のもとに再び行かれるのです。「父のもとへ」とあるのはこのことを強調しています。これこそキリストが考えておられたことなのです。

そしてこのためにキリストは死に直面しながらも恐れを抱かれずに済んだのです。

2. 彼らを完全に愛していたから

1節では「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」ともあります。ここでは最後まで愛されたという意味もありますが、使われているギリシャ語には「完全に」という意味もあります。そこでこの部分は「弟子たちを完全に愛された」とも解釈できるのです。

キリストが成そうとされていることは彼の愛ゆえの行為でありました。このことから愛が仕えることの動機の一つであることが分かります。

3. キリストは状況を超越した生き方をした

2節の「とき」が次の分詞ですが、これは原因を示していません。このことが起こった時を示しているのです。

この時二つのことが起こっていました。

    · 一つは夕食です。これについては4節のところで詳しくお話しましょう。

    · 二つ目は裏切りです。ユダが既にキリストを裏切ろうと計画していることが書かれています。キリストはそのことを知っておられましたが、それが弟子に仕えることを止める理由にはなりませんでした。

法則: 悪の存在は愛の妨げにはならない

悪意はキリストに向けられていましたが、キリストはユダへの対応を変えておられません。キリストは態度を変えず、愛と奉仕を実践し続けられました。

つまり私たちが世の悪にどういった対応をするか、また私たちに向けられた悪意にどう対応するかが問題なのです。周りの状況を問題の言い訳にすることはできません。もし両親に虐待されたら、あるいは弱々しい父親と支配的な母親を持ったら...そういったことは私たちがどんな人間であるかの言い訳にはなりません。自分が自分という人間であるのは周りの環境に下手な対応をしたからなのです。

キリストは状況に左右されずに生きられました。キリストは正しい対応をされたのです。

3節では引き続き、なぜキリストが状況に左右されずに生きることが出来たのかが書かれています。

4. キリストは自身が誰であるかを知っていたから

「悟り」とあります。これは重要な点です。なぜなら私たちはなんとしばしば何かを知っていながらそれに沿った行動をとれずにいることでしょう。頭では正しいと分かっていても本当に信じていないのです。あるいは、自分が特別な存在でそのことが自分には当てはまらないと考えたり、自分を変える事を拒んだりしているだけなのです。

キリストは何かを知っておられ、それを信じ、その通りに行動されました。4節は3節に続いて、「__を悟り、__された」とあります。キリストの知識は彼の行動の源となっていたのです。

キリストは何を知っておられたのでしょうか。

( a) キリストは「父がすべてを御自身の手にゆだねられたこと」を知っておられました。

エフェソの信徒への手紙1:22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会をお与えになりました。

ヘブライ人への手紙2:8 「すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。

キリストはまだ実際に起こっていない何かに期待されていました。未来を見ておられたのです。そしてそれに従った行動をされました。サタンはまだ世におり、問題を起こしていましたが、イエス様は「ねえ、神様、あいつのことをどうにかするって言ったじゃないですか」なんてことはおっしゃいませんでした。キリストは神様が良しとされる時に悪に対処することを約束されたのだと分かっておられたのです。思い出してください。神の子でさえ神様がいつこの世の終わりを告げられるかはご存知無いのです。

キリストは地上に生き、もう少しの間苦しみに立ち向かわなくてはならないことを知っておられました。しかし、状況が彼に味方していない時でさえ、キリストはあたかもそういった状況ではないかのごとくに振舞われました。「振舞われた」と私が言うのはキリストがそういった振りをされたと言っているのではありません。私が言いたいのはキリストの行動がそう信じておられることの表れであったということを言いたいのです。キリストは父が言われたことを理解しておられましたし、何も心配していらっしゃらなかったのです。

(b) キリストは「御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていること」を知っておられました。

キリストには自己認識の危機はありませんでした。自分は何者かということは他人の意見に頼らずとも分かっておられたのです。このために彼は他人に仕える自由を与えられました。

これこそ弟子たちがなぜお互いの足を洗わなかったのかの理由です。彼らは他人が自分のことをどう思うかを心配していたのです。彼らの自己像というのは他人の意見で成り立っていたのです。

良い自己像を持つということについて書かれた新しい本は全て、多分にそのことを強調しすぎているようですが、良い自己像を持つことは本当に重要なことです。しかし、一番大事なのは聖書に基づいた自己像を持つことです。それは神様の愛ゆえにあなたが守られ、価値ある存在だということであり、他人があなたを好きだからとか、あなたを高く評価しているからということではありません。

さて、分詞を見ながらキリストが弟子たちに仕えることがおできになった理由を見てきました。次は動詞を見ていきましょう。キリストの行いを見ていきます。

B. 行い

1. 食事の席から立ちあがった

2節の「夕食のとき」と4節の「食事の席から立ちあがって」という箇所は重要です。なぜなら通常足を洗うのはテントや家に入ってすぐだからです。人々がゴミや汚物を道に捨てていたというのを聞いたことがあるかもしれません。このため、サンダルを履いた足は結構汚れるものでした。ここでは召使の姿はありませんし、夕食の席についており、だれも他人の足を洗っていません。なぜでしょう。

(a) キリストは弟子たち自身がまず足を洗うことを待っていらしたのではないかと思います。誰も他人の足を洗わないのがはっきりした時点で御自身が僕の仕事を買って出られたのです。もちろん「あーあ、誰もやんないのか。じゃ、私がやるか。」といった態度でやられたとは思いません。キリストは進んで足を洗われたと思います。キリストは単に弟子にその機会を与えたかったのです。

(b) また、弟子たちは高慢過ぎたのだと思います。私たちは彼らが天国でどんな地位につくのかを心配していたことを知っています。そして多分、夕食の席で誰がキリストの横に座るのかを気にしていたでしょう。弟子たちは僕の仕事を買って出て、皆の足を洗い、屈辱を受けることなんてしたくなかったでしょう。

2. 上着を脱ぎ

弟子達に対してキリストの態度はどうでしょう。彼は上着を脱ぎとありますが、これはキリストが自分の地位を捨てるという象徴的な意味があります。キリストがお捨てになった究極のものとは何だったでしょうか。フィリピの信徒への手紙2章5節から8節ほどこれを端的に説明している箇所はありません。

2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

聖書の訳によってはキリストが神との等しさ、または神としての権利にしがみつかなかったとあります。しかし、これらの訳は重要な点をのがしています。キリストは神と同等である事をやめられた訳ではありません。キリストは本質的に神と等しかったにもかかわらず、能力的には神と等しくなることを望まれなかったのです。キリストは父なる神の意志に従う者となられたのです。

弟子たちも本質的にはお互いに等しい存在でありました。しかし彼らは能力的により劣った存在になることを望まなかったのです。それどころか他より優位に立つことを望んでいました。例えば以下の聖句を見てください。

マタイによる福音書20:20‐22 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。

21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」

22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと

マルコによる福音書9:33‐34 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。

ルカによる福音書22:24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。

弟子たちの基本的な態度とキリストの僕としての態度が分かりますね。

3. 手ぬぐいを取って腰にまとい

キリストの行為は引き続き象徴的です。「手ぬぐいを取って腰にまとわれた」という箇所は、僕の前掛けを腰にまとうことで、僕の役割を受け、僕の仕事をやるということを意味します。

弟子たちよりも優位な立場にありながら、キリストは自分の本来の地位を捨て、僕としての地位に立たれたのです。

キリストは弟子たちに仕える事の模範をお示しになり、彼らがキリストに見習って他人に仕えるために知っておかなくてはならないこと、やるべきことを教えなくてはなりませんでした。

II. 私たちの奉仕の基本となるもの

はじめのセクションでキリストは弟子達に彼と共にあることをお教えになりました。そしてユダを悪の務めに送り出した後、しばし休み、次のセクションでキリストは自分がこの世を去ることを弟子達に伝え、彼らが天国でキリストに交わる未来への希望をお与えになりました。

最初のセクションと最後のセクションに注目しましょう。

次の2つのセクションは、僕の心を持つ事と仕えることができる事に欠かせないセクションであるということを理解しておく必要があります。はじめのセクションでは私達は過去と向き合わなくてはならない、つまり私達は清められなくてはならないということが分かります。2つ目のセクションではどのように将来と向き合うべきかが分かります。これら二つの点が私達の心に刻み付けられれば、私達は他人に奉仕できる自由を得るのです。

第6節から11節までを読んでください。

A. 清い心を持つ1―過去と向き合う

私達はどのように清められるのでしょうか?

この足を洗うという行為は何を意味しているのでしょうか?

ギリシャ語では洗うということを表すのに2つの単語が使われています。一つはlouwという語で入浴するという意味、もう一つはniptwという語で洗うという意味です。このことから2つの精神的な洗浄があるというのが分かります。

まず、改心の入浴です。これは私達が救われたときに起こります。私達は自分が罪人であり神様に認められる希望がないことを認めるとき、キリストの死と復活に信頼をおきます。そうすることにより神の家族となり、クリスチャンとなるのです。

2つ目の洗浄はヨハネの手紙一1:9にあるように私達が自分の罪を告白する時に起こります。

これこそ足を洗うということが象徴しているものです。このためキリストは既に身体を洗った者は(救われたものは)足だけ洗えばよい(罪の告白をすればよい)とおっしゃったのです。。

キリストはこうも言っておられます。「皆が清いわけではない」。ヨハネはこれを11節で説明しています。ユダは一度も入浴をしていないのです。彼はキリストを信じていませんでした。

キリストはこの後腰を下ろし、今やったことがどういうことであるかを説明されました。12節から17節を読みましょう。

これらのことは私達とどう関係しているのでしょう。

最も明らかなことは私達が他人に仕えなくてはならないということです。13章15節はキリストがなさったことが私たちの倣うべき模範であると明言しています。

これは私たちがこの世とどう関わっていくべきか、ということにも関連していると思います。私たちには自身の問題や周囲の悪、私たちに向けられた悪に関係なく、正しい対応をし、他に証する責任があります。しかし、あまりにも頻繁に間違った反応をしてしまいます。私達を不当に扱った人に対して怒りや憤りを感じてしまうのです。再び傷つきたくないがために周りの人間を操ろうとします。けれど、間違った反応をしたことについて告白し、正しい行動をしなくてはなりません。

私はこの数ヶ月で、これが効果的なカウンセリングの秘訣の一つであると学びました。その課程は次のようなものです。

まず始めのステップはその人の過去を明らかにし、どんな不当な扱いを受けたのかを分からせます。これはその人を虐めた人に対して怒りを持たせるためではなく、次のステップにいけるようにするためです。

2つ目のステップはその人がその意地悪や虐待に対してどんな間違った対応をしたのかを理解させます。

3番目のステップはその人の間違った対応を告白することができるように導きます。

こうして白紙の状態で人生を再び歩み始め、このような悪い記憶をどうすれば正しく処理できるか、人生とどう向き合えばよいのかを学ぶことができるのです。

ですから、告白はとても重要なステップです。告白について少しお話しましょう。

罪を告白するということは私達の状態を神様と同じ視点に立って言うことです。神様と同意して間違いを間違いとして認め、自分を正当化することはできないと認めることなのです。

まず私たちは神様が許せないほど大きな罪は無いと言うことを信じなくてはなりません。アーウィン・ルッツァーは「私たちは自分の罪が神様の哀れみよりも大きいと思うことが謙遜であると思うかもしれません。しかし神様の許しを疑うと言うことはうぬぼれであり、不信仰であり、謙遜ではありません」と言っています。

私たちが許されないほどの罪を犯したと思う時、私達は神たちの先見を疑っているのです。それは神様が私たちの起こすであろう特別大きな罪を考慮しなかったと思う事なのです。

次に、神様は忠実で、許すという約束を守るということを信じなくてはなりません。

清めの目的はなんでしょう?

それは神様との交わりを持つことです。

8節では罪の告白無しには神様との交わりを持てないとあります。神様との交わりがないということは自分たちしか頼れなくなるのです。エレミヤ書2:13では私たちが水をためることのできない、こわれた水溜めを掘るとあります。そのこわれた水溜めというのは、私たちが人生に向き合うためにとっている方法のことです。私たちは人見知りになったり、社交的になったり、アルコールやその他の中毒になったりします。しかし水溜めはこわれているのです。私達は自分達だけで生きていくことはできません。

ではなぜクリスチャンは罪の告白をせず、その結果キリストとの交わりのない生活をしているのでしょうか?

未熟さ―そういった人達は「どうせ私はへまをするんだから」という態度でいます。ですから罪が積まれていってしまうのです。ある人はこのような状態のことを「神様に借金をする」と呼びます。消費者金融に行かなくてはいけないほどたくさんの罪を溜めこんでしまわないようにしましょう...

例)私は不動産取引で信用問題を抱えた人たちにたくさん会います。そういった人たちが陥る共通の過ちはいくつかの口座の返済に遅れてしまったために消費者金融で負債の統合を行ってしまうのです。

不信仰―そういった人々は神様が本当に許し、忘れてくださるということを信じていません。「私は同じ罪を何度も何度も起こしたので、同じことで神様の御前にいくのが恥ずかしい」というのです。

無知―「神様と交わりを持てるようになったと確信できるようになったら神様との交わりを持つよ」という人がいます。これのどこがいけないかというと、交わりの手を伸ばすのは「私たち」ではないということです。神様が私たちの罪を取り除かれるのです。私たちはただ告白し、交わりを持たせて頂ける様努力するだけなのです。

ローマの信徒への手紙6章から8章で、このことに関連した記述を見ることができます。5章で、キリストの十字架上の死によって私たちがどのように信仰によって正しいものとされるかについて述べたあと、パウロは6章で、もし私たちが罪を犯すなら神様の恵みが増えるかと問うています。答えは明らかに否です。そして7章でパウロはどんなに彼が善を行おうともがき、罪を犯さないようにしているにも関わらず自分を抑えることができないと言っています。

7章、特に15節から25節で特に目を引く語があります。それは「わたし」という言葉です。これはパウロが彼だけの力ではどうしようもなかったということではないでしょうか。彼には自分の古い性質を抑えることができなかったのです。

8章の話題とそこで特に目を引く語は何でしょう。ここでの話題は罪のを支配する力と勝利の生活です。パウロが、現在の苦しみは将来現される栄光に比べると取るに足りない、と言っている18節では、「わたし」という語は一度しか出てきません。しかし、「霊」という語は何度も出てきます。7章では「わたし」はできないといっていますが、8章では「霊」はできるといっているのが分かります。

ですから、あなたが罪を克服できると思う時、それを告白するのを遅らせてはなりません。

欺き―「落ち着いてキリストに献身する前にこの世を楽しみたい」。欺きとは強烈ですが、ぴったりな言葉です。このように考えているとき、私たちは神様がいない方が良い生活を送れる、というサタンの嘘を鵜呑みにしたことになるのです。

皆一度や二度、こういう風に思ったことがあるのではないでしょうか?私はあります。

清められるのはどれほど難しいことでしょうか?とても難しいことですか。いいえ、神様にとっては難しいことではありません。私達にとっては謙虚さが必要なために難しいのです。

さて足を洗う例に戻りましょう。皆さんの中には、私たちは現在もお互いの足を洗いあうべきなのか疑問に思っていらっしゃるでしょう。私は足を洗い合うべきだとは思いません。足を洗うというのは昔の習慣的で、食卓について、他人の鼻の下に汚い足を突き出す前に必要不可欠でした。13章15節で言っていることは足を洗うべきだということではなく、他人に仕えるべきであるということなのです。

しかし、いまだに教会で足を洗いあうべきだと信じている人がいます。そして年に数回、教会で足洗いの儀式を行うのです。でも、彼らが何をするか知っていますか?

儀式の前には皆、私やあなたがやるであろうことをやります。教会に来る前に自分の足を洗い、足の爪を切ってきれいにするのです。なぜですか?きれいな足を誰かに洗わせるのもなんですが、汚い足を洗ってもらうなんて全くの別問題です。侮辱的であります。

この例えをもう少し見ていくことで、足を洗うということと精神的な清めを関連付けられると思います。

神様の前に出て罪の告白をすることは恥ずかしいことです。自分のプライドなんて吹き飛ばされてしまいます。私たちは神様の御前に出て告白をするくらいなら、その前に自分で自分の行動を精算したいと望む傾向があります。それは自分の問題を自分で解決しようとすれば神様により許され受け入れられるのではと思っているかのようです。

これこそクリスチャンが神様の手助け無しに自分に頼って生きようとする理由です。そうした人達は高慢過ぎるのです。

16節でキリストは「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」と言っておられます。キリストは非常に明白なことを言っておられるように見えますが、弟子達は実際のところ自分達があたかも重要人物であるかのように行動していたのです。

17節では私達が僕であるべきだといった真実を知っているだけでは十分でないことに気づかされます。目標は私達が知識を行動に移すことなのです。

次のセクションではユダのことについて述べてありますが、そこは割愛して13章33節に進みたいと思います。

B. 穏やかな心を持つ2―未来と向き合う(13:33‐14:7)

キリストは奉仕の模範を示し、過去と向き合うこととキリストと交わりを持ちつづけることの重要性を説明されました。

さて、キリストは他にも奉仕の基本となることについてお話しになりました―それは未来への希望です。

キリストはまず弟子たちに新しい掟を教えることから始められます。掟という語にははギリシャ語で「生きる道」という意味があります。それは法律のように法的に守られるべきなものというのり、本来あるべき姿勢です。お互いへの愛の姿勢なのです。再び「操るのではなく、証すること」ということに戻るのです。

35節には「互いに愛し合うならば、それによってあながたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とあります。この新しい生きる道は私たちを世間から引き離すものです。それは、人はもともと自分を愛し、自分の必要に応じて周りをコントロールし操ろうとする傾向をもっているからです。

ペテロの反応を見てください。36節と37節で、ペテロはキリストのためなら死んだほうがましだと言っています。完璧な人間と生きる事を想像してみてください。キリストを失う事を思うと、弟子は何もできなくなってしまうのです。

そこでキリストは再び彼が帰ってくるのだとおっしゃって弟子たちを安心させました。弟子たちに未来への希望をお与えになったのです。それは弟子たちに穏やかな心も与えました。このことは私たちが自分の恐れから開放され、未来への確信を与えられなければ、他人に証をするという「新しい掟」に従うことに集中することができないということを言っていると思います。

ヨハネによる福音書14章1節で、キリストは「心を騒がせるな」と言っています。そして27節でも同じことを繰り返しています。これは14章では心を騒がせないようにするためにはどうすれば良いかが書いてある証拠です。

キリストはどの様にして弟子達を安心させていらっしゃるでしょうか?13章36節から14章7節でキリストは弟子達が天国に行くとおっしゃっています。弟子達がキリストに再開できると言っておられるのです。そのことこそ天国とはどんなところかを現しているのではないでしょうか。

このことを知っていることが地上にある私達にどんな助けとなるのでしょうか。

それを一番上手に伝えるためには空軍学校のサバイバル/捕虜訓練キャンプを例に説明すると分かり易いかと思います。私は訓練を終えることができます。なぜならそれはたった48時間だけだからです。楽しくないでしょうが、なんとか終えることができるでしょう。それはごく限られた時間だから...

結論

アーウィン・ルッツァーは「たくさんの人が自分の人生を過去の後悔と明日への不安と言いう二人の泥棒の間で十字架につけている」と書いています。

キリストは弟子達にどうすれば過去の後悔を拭い去ることができるのかを示されたのだと思います。弟子たちは罪を告白するべきなのです。そうすればキリストと交わりを持つことができ、人生に向き合う力を与えられるのです。

またキリストは弟子たちのための場所を用意しており、弟子達のために戻ってくるとお伝えになることで、彼らの心配を拭い去りました。このことが人生を耐え得るものとしたのです。なぜなら、それは永久に続くものではなく、将来待ち望むものがあることを示されたのですから。

これらの聖句はどのように人生の問題に対面すればよいかを教えてくれていると思います。人生に失望したり、何かに苦しめられたりするとき、私たちは自分の対応が罪深いことを認め、告白する必要があります。キリストとの交わりに戻らなくてはならないのです。キリストに委ねましょう。

それから将来が永遠の救いを約束していること心に覚える必要があります。私たちはこれらの試練にちょっとの間向き合っているだけなのです。ローマの信徒への手紙8章18節にあるようにパウロのような姿勢を持つことが必要です。

そして状況は足を洗う場面であったことを思い出してください。それは奉仕の場面です。これらすべては私たち自身の個人的な快適さのためにあるのではないのです。最終目的は他人への奉仕のために私たちが自由になることなのです。


1 This outline was adapted from How to Have a Whole Heart in a Broken World, Erwin Lutzer. Pp. 11-26

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