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父としての責任 (申命記6:1~19) (Responsibilities of Fatherhood - Japanese)

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Translated by Masazumi Fujiwara from the English.

序文

申命記6章4~10節は家庭のマグナ・カルタと呼ばれるもので、神の目標とされた家庭の良きあり方と幸福を保証するものである。これは家庭にとって重要な文章であるがこの箇所は決して全体の文脈や目的を越えて使われてはいけない。さもなくばそれは家庭にとって本当の意味を失ってしまう。

この聖書箇所の主要な目的の一つは、神への従順を通して、神の民にその身分にふさわしい職務と証を求めることにある。

出エジプト19:6~7

6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。

申命記4:6~8

6 これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。 7 まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。 8 また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。

申命記6章はただ単に従順のための従順でもなく幸福のための従順でもないし、家庭の原則に対しての文だけでもない。それは神の栄光のための従順を要求するものである。それは、つまり、世代を越えての主への信仰の永続を通して、神の民の、神への愛とこの世界に対しての職務(働き)への愛を明らかに示すためである。

個人的な祝福は約束されているがそれはあくまで主との関係の副産物であってそれ自身で終わるものではない。

今日の神の民(イエス・キリストの教会)として、これは確かに我々への神の要求であって我々の責任である(Ⅰペテロ2:5~12)。次のことを心にしっかりと刻んでいてほしい。これらの旧約聖書の原則・警告と奨励は、今日の我々のために与えられており、「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。」(ローマ15:4)

申命記のこの箇所を構成する背景やバックボーンとして次の三つがあげられる。

・ 神への愛とおそれの証拠としての神への従順

・ 主を忘れる事への警告

・ 神の真理を来るべき次の世代に伝えることの必要性 godly parenting (cf. Ps. 78:1ff)

申命記6章は我々にこの事をどのように行うかを示してくれる。つまり、私達が主を忘れることのない従順な者となり、いつの世代でも注意深い従順と共に、神の言葉をさぐり求める者となるために必要なことを示してくれる。

従順さの要求:真理の伝達(6:1~2)

申命記6:1~2

1 これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令――おきてと定め――である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。 2 それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。

申命記4:10~11

10 あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」 11 そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。

申命記4章のホレブでの経験は人々の心の中に神へのおそれを持たせるために行われた。それゆえ、主と彼らとの契約が可能となった。旧約聖書における神へのおそれとは敬愛や畏敬以上のものであり、両方を含むものである。神を恐れる事は神の道徳的清さと全能性を強烈に意識させ、人は神に従わないことを真に恐れるようになる。神を恐れることは神への応答として、礼拝、奉仕、信頼、従順や献身の中にあらわれてくる。

ホレブでのその日、神の全能性は炎の中に・・・黒い雲の中に・・・深い暗闇と天から稲妻と共に神の語りかけがあったその中にあらわれた。神の道徳的清さは神の契約と言われる十戒の中にあらわされていた。(Bible Knowledge Commentary)

当然、信仰と真理の新しい世代への伝達とその永続は重要である。それはまた、イスラエルが祝福と、神がはじめ目的とされた「国々の中で祭司の役割を持つ国」としてのイスラエルを完成される事を楽しむために残された約束の地の特権を受け続け、自分達の従順さを続けるためにも重要である。

従順のための基礎:神の真理を聞く(6:3~4)

申命記6:3、4節

3 イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。 4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。

神にきく

従順のための基礎は御言葉を聞くことから始まる。聞く事は恐れる事とかたくなになる事を防ぐ。(ヘブル3:7)

これらの言葉はイスラエルの国に述べられた。しかし、特に親、それも父と祖父に語られたものであり、それは聖書がいうように、父親のリーダーシップや子供への信仰の永続に対して、父親に責任があるからである。これは文脈からも明らかである。(2、7、20節)

父親がすべきであり、できる事で自分自身や家族のためにもっとも大切な事は何か? それは神の言葉を聞くことをもっとも大切なものとして自分自身の生活・人生と子供のそれの中におく事である。私達の子供は神の言葉を聞き、知る事の重要性を形式的にも具体的にも学ばなければいけない。御言葉を聞く事、知る事、御言葉に従う事は我々の霊的な成長と神と共に歩む事において、また親としての能力や子供達の人生に対して決定的に重要である。

少女が目を輝かして父親に言った。「お父さん、もう日曜学校に行く時間だよ。一緒に行こうよ!あそこでイエス様の愛とイエス様が死んでくれて、それを信じる私達すべてに永遠の命を約束してくれる事を教えてくれるんだよ!」

「ああ~、今日はだめだよ。一週間働き詰めだったから、森とか湖にでも行ってリラックスしてくるよ。お父さんを疲れさせないであっち行っててくれ。教会はまた違う日にでも行くよ。」

年月がたち、娘はもうこんなお願いをする事はなくなった。娘も子ども時代を終え、父親も年をとった。そのときになってようやく父親は教会に行く時間ができた。しかし、娘はどうするだろうか。彼女はこう言うだろう。「あ~、お父さん、今日は無理だわ。昨日は徹夜だったの。少し寝る事にするわ!」(Paul Lee Tan, Encyclopedia of 7700 Illustrations, #1628, Assurance Publishers, p. 431)

次にテキストは従順の基礎と御心にかなった親について教えている。

神を知る

御言葉を聞くことの目的は主を知る事である。「聞く」はヘブル語では「シェーマ」と言い「聞いて理解する」と言う事である。御言葉を聞くということは決して形式的なものや神に向かって「ふんふん」とうなづくだけですぐに神を忘れてしまうような単なる宗教的日課のようなものになってしまってはいけない。テキストは私達にとっての御言葉とその真理を聞く意味を教えてくれている。それは私達が神を親しく個人的に知り、そして主との個人的な関係へのガイドであり手段である聖書の真理を理解するためである。私達は「パンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」のである。私達は個人的に神を知り、私達の信頼を神に置いてくれる御言葉によって生きる必要があるのである。

私達はどれほど自分自身の神に関する知識が不足しているかを理解する必要がある。私達は自分自身のことを、評価しなければいけない。しかしそれは、私達自身が持つ神についての知識によるのではなく、おぼえている聖句の量によるものでもない、また自分自身に与えられた賜物や才能、召命によるのでもない。それは、私達がどのように祈っているのか、どのように主と御言葉によって交わっているか、私達の心の中を行き交うものによって、そして、私達が聖書から知っている事にいかに従っているかの度合いによるのである。

4節の残り「主は私たちの神。主はただひとりである!」は、その正確な意味において議論される箇所である。それは神の統一性・単一性、主の唯一性を強調している。Ryrieは次のように書いている。

ヤハウェの唯一性を強調するなら「主は私たちの神。主はただ一人である!」がもっともであるが、4節は様々な訳がある。二番目の強調としてその不可分性があり、英語訳では顕著である。主の唯一性は他のものへの礼拝を排除し、愛の伴った全身的な献身を要求している(5節)。この告白はのちに明らかにされる三位一体性を排除するものではない。それは神という言葉が複数形であり、一つという言葉は二人の人が一つの体となるアダムとエバの結婚にも用いられているからだ(創世記2:24)。(Charles Caldwell Ryrie, Ryrie Study Bible, Expanded Edition, Moody, p. 285)

4節はイスラエルの信仰告白の本質を表現している。すなわち、ヤハウェは神々の中の一人でもなく古代神話の神々のうちの一人でもない。彼は世界のただ一人の神であり、本質において一つである。また、新約聖書で明らかにされた三つの位格を持つお方である。

私達が主を知るために、また主が支配者であり、全宇宙の聖なる神であり、私達の命の救い主であるという考えのもとに、つまり神の啓示と贖いという視点から生きるために重要な事はその御言葉を聞かなければいけないということである。これは非常に重要な事である。なぜなら、神についての正しい認識は私達が神を愛し、従い、人生のすべてにおいて神に信頼するために非常に重要であり、基本的なことであるからだ。この知識が心に刻まれる事なしに、また人生の岩としての役割を果たす事がなければ、私達は世の神々を追い求めてしまうであろうし、物質主義の空虚さを経験してしまい、サタンの多くの罠にはまってしまうことになる。私達が真の神を知るにつれて、私達はもう他の神々が必要でない事を知り、真の神おひとりで十分に私達の必要と命を満たしきってしまう事を知るだろう。事実、彼は私達の十分であり、唯一なのだ

私達が御言葉を学び、彼のことを知るようになると、私たちは自分自身が彼に信頼する事を学び、そしてそれを私達の子供達に伝えていく事になる。

神に従う

4節の「聞く」という言葉には「聞いて従う」という意味が含まれている。つまり私達が聖書の考えに基づいて行動し、従順でなければ私達は実際には聞いていないということである。私達は必ず心からそして、親しい理解と神との交わりを伴って聖書に従って行動しなければいけない。(6:2a~3b、4)そうでないなら、私達は結局は聞いていないということである。次の言葉に注意しておいてほしい。「命じるすべての主のおきてと命令を守るため(2節)」「聞いて、守り行ないなさい(3節)」聖書を私達の指針とする理由はここにある。私達は自分自身が自分の人生の導き手となる事はできない事を知らなければならない。

箴言14:12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

箴言12:15 愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。

エレミヤ10:23 主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。

次の原則も心に留めてほしい。

I. 従順を伴わない知識は決して十分ではない。

II. 従順を伴わない知識は単に部分的なものである。結局、理解していない知識と一緒である。また霊的な見識と理解の欠いた情報となってしまう。

III. 主を真に知るためには従おうと心から願う事。そしてそれなら従う事!

生ける神と会うという事は自分を変えることであり、つまり従う事である。そうでなければ私達は単に宗教的・感情的な状態と遭遇するだけである。神に従うことを拒む両親は子供達に不従順を教えているのである。子供が幼いころに聞いた言葉はその子の将来に決定的に重要な意味を持つということは私達自身の経験からも明らかである。

・ 批判的な両親の子供は批判的になる。

・ 口論や叫び声の絶えない家庭の子供は同じようになる。

・ うまい事言い訳をつけて聖書クラスや教会に行くのを免れるような両親の子供はたやすく行かない言い訳を見つけるようになる。

・ 主の働きや他人に対して関心を持たないような両親の子供は自分の周りの助けが必要な人に無関心になる。

Woodrow Wilsonがプリンストン大学の学長だった時、両親の集いでこのような事を言った。

私は皆さんのような両親から子供について多くのお手紙をいただきました。ここプリンストンのような所にまで来る人がなぜもっと人のために行動する事ができないかを知りたいと皆さんお思いでしょう。なぜそうできないかを今言わせていただきたい。おそらくショックな事ですが、丁寧に述べたいと思います。それは彼らがあなた方の息子であり、あなた方の家庭で育ち、あなた方の血の血、骨の骨だからです。あなた方は彼らのすべてを形作ってきました。彼らはあなた方の息子なんです。人間の形成期の数年間において、あなた方は決して消える事のない影を彼らに残したのです。(Tan, #4174, p. 960)

従順という事の性質:神への愛(6:5~6)

申命記6:5節  心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

愛の程度

 私達は主を全てをもって愛さなければいけない。「心を尽くし」、自分自身を余す所なく彼に捧げなければいけない。これはかなり大変な事である。それは主が愛しがたいお方であるのではなく、私達が非常に自己保身的で自分勝手な目的を持ちやすいからである。私達は古い讃美歌が言うように、「主を感じていても迷いやすく、神を愛していても離れていきやすい。」

私達が従おうともがく時、昔からの問題である「二つの主人」「二つの宝」にぶち当たる。

マタイ6:19~24

19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、 23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。 24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

そのため、私達は自分自身の価値と優先順位をもう一度評価しなおさなければならない。

・ 神は私にとってどれほどリアルなのか?

・ 私と神の関係は単なる知識的なものか?

主を愛する事の秘訣は彼を知る事にある。そして彼を知るための秘訣は聖書の学びと祈りである。もし私達が主を愛さず、彼に最高の優先順位・価値を置かないのなら、私達の子供がそのようにしなくなるのは必然的である。そして、主への私達の愛だけが、子供の教育を御心にかなったものとし、生活においての優先事項とする。そうでなければ、私達は子供を自分の楽しみや仕事、個人的な興味のために無視してしまうことになる。

様々な世界で、仕事や劇場、スポーツや主の働きにおいてでさえ、活躍したどれだけ多くの人々が惨めにも自らの子供のことで失敗してきただろうか。お父さん方、私達の子供はこの世界の基準としては成功するかもしれない。しかし、もし彼らが結局イエス・キリストのために生き、彼への愛と、その価値に関心を持っていなければ、それは神の目には失敗であり、私たち自身が責任を果たせなかった事を意味するのです。私達は、子供達が自分の意思を持ち、自ら背いていく事を忘れてはいけないが、あまりにも多くの場合、私たち自身がそうすべき生き方をしなかった事が原因である。

箴言15:17   野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。

箴言17:1   一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。

あなたはこの箴言の言うことを信じますか?あなたの優先順位はどこにあるのですか?

愛の性質

「これらのことばを、あなたの心に刻みなさい。」 「これらのことば」は神に関する事と神のみことばの事である。「あなたの心に刻みなさい。」は「心に刻んで、思考の中心に据えて、献身の目的としなさい。」と言う事である。それは私達の神との関係や御言葉への従順が石碑と対比されていて、私達の神との関係が単なる律法的・形式的なものではなく、霊的で思慮深いものであることを意味している。

愛と従順は

・ 霊的・・・形式的ではない

・ 中心・・・はしっこではない

・ 一番・・・二番目ではない

 この事は私達のするすべての事において、私達が聖書的な原則や神のリアリティという視点で考え、生きていく事を学ばなければならない事を意味する。神の言葉は人生・家庭・仕事・礼拝・遊びなどすべてのものにとって土台であり骨組みである。(Ⅱコリント10:4~5)

これらの事が次の話の基礎になるのである。

従順の伝達:御言葉を教え、模範となる(6:7~9)

申命記6:7~9

7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。 8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

申命記6:20~25

    20 後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、主が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか。」と言うなら、 21 あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。 22 主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない、 23 私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちをはいらせて、その地を私たちに与えるためであった。 24 それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。 25 私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。」

私達が聞き、従い、主に支配していただく事ができるようになるまで私達は真に教える事はできない。

この教えがどうのように教えられるべきか、この部分は5つの要素を上げている。

I. 絶えず・・・両親は他にも多くの仕事や責任があるが、この責任よりも重いものはない。これは決し    て軽く扱われてはいけない事である。      

II. 的確に・正確に・・・これは「絶えず」と言う言葉に含まれているもので、鋭い言葉を与えると言う事である。明確に、正確に、的確に教えなければいけない。私達は明快に正確に教えなければならず、曖昧に大雑把に教えるべきではない。

III. 繰り返し・・・この箇所は教えると言う事が決して一回きりの事ではないことを言っている。それは常になされなければならない。学ぶ事の秘訣は繰り返しである。

IV. 自然に・・・それは私達が座る時、歩く時、寝る時、起きる時にされるべきである。言い換えれば、私達は言葉や例によって教える機会を、毎日の家庭生活を通してさがさなければならない。20節のように、このような事は子供の自然な好奇心を通して実際に行われる事が多い。

V. 個別に・・・私達の子供が教会学校や教会で学ぶ事は重要であるが、これだけに任せていてはいけない。この文章は両親に対して言われたもので教会に対していわれたものではない。訓練は第一にして主要な両親の責任である(cf.エペソ6:4は父親に対して述べられている)。もう一度、これは模範となる事を強調している。口で言う事よりも行動をもって示す方が影響が大きいからだ。

この学びの最初の部分で触れたように、両親が聞き、従い愛する時、それは子供達への模範となり、家で口で教えた事の補強となるのである。

従順に対する警告:この世のようであってはいけない(6:10~19)

申命記6:10~19

10 あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、 11 あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、 12 あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。 13 あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。 14 ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。 15 あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。 16 あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。 17 あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。 18 主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。 19 そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。

I. これはこの世を愛する事への警告である。(10~15節)この警告には教訓のようなものがある。私達は文化的な  進歩を吸収する時、必ずといっていいほど道徳や霊的な価値も吸収してしまう。カナの地は物質的文化は進んでいた。町は整っていて家々のデザインはよく、建築物も素晴らしかった。建物の床は舗装されていたりしっくいで固められていた。排水施設も整備されていた。労働者は銅や鉛、金を扱う技術を持っていた。陶工技術は世界一を誇っていた。大規模な貿易がキプロスやエジプト、北メソポタミアなどの外国との間でなされていた。技術的な知識では、40年間荒野での遊牧生活を送ってきたイスラエルとカナンではカナンのほうがはるかに優れていた。

歴史では大抵、文化的に遅れている方が進んでいる側に吸収されてしまう。後の数年間でイスラエルはカナンに吸収されなかったが、深い影響を味わうことになる。物質的な側面を見ると陶工技術や建築方法、農業技術など益となったとしても、思考方法や考え、特に宗教的信仰や儀式になると害は非常に大きかった。(Leon Wood, A Survey of Israel’s History, Zondervan p. 169)

ここに霊的な原則がある。繁栄の中で人々は神を忘れてその代わり物質的なものに信頼するようになる。これはそれ自身、悪い事であるが、もう一つの問題がいつも生じてくる。それは私達の周りのこの世の考えや見方を吸収してしまうということである。

(2)これは不従順や反抗によって主を試す事への警告である。(16~17節)これは結局は国や個人にとっての規律である。

(3)これは神の目的を忘れる事への警告であり、神の目的に従って生きれなくなることへの警告である。(18~19節)私達は決してなぜここにいるのかという問いに対する見解を忘れてはいけない。私達は単に地上に住む民として自分勝手なゴールを追及するためにここにいるのではない。むしろ、巡礼者(旅人・寄留者)である。この「巡礼者」という認識を失えば、私達はこの世に吸収されてしまう危険にさらされているのである。そしてその結果は親としての失敗である。なぜなら、まず自分自身が神の子供として失敗しているからだ。

Jonathan Edwardsは御心にかなった家庭の子供であった。彼の父親は聖職者であり、彼の母の父(母方の祖父)も聖職者であった。この御心にかなった人の子孫の歴史を覚えておいてほしい。

彼の家系の400人以上が分かっており、そのうち大学学長が14人、大学教授が100人、福音に携わるような牧師や、宣教師、神学教師が100人。100人以上が弁護士や裁判官である。さらに全体数以外でも60人が医者で、他にも著名な作家や雑誌の編集者がいた。

事実、彼の遠い祖先が17世紀半ばに結婚したので、ほとんどのアメリカの目だった産業の中で牽引者的な役割を果たした人のうち必ずといっていいほど少なくとも一人以上のEdwardsの子孫を見つける事ができる。(Tan, #4182, p. 962)

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